地球(テラ)へ…

第24話「地球の緑の丘」

脚本/大野木寛・ヤマサキオサム 演出・絵コンテ/久城りおん 作画監督/中野りょうこ

あらすじ
 キース・アニアンの提案でグランドマザーとの面会を果たしたジョミーは、なぜミュウと人間の共存は許されないのかと問う。グランドマザーは地球を滅ぼしたのは人類の悪だとし、キースはジョミーに、ミュウが生き残るためには人類を殲滅するしかないと言い放つ。

Aパート:マザーの問い、剣を取るキース、スウェナの放送、フェイズ4移行
Bパート:ジョミーVSグランドマザー、崩壊と救出開始、メギド始動、次のソルジャー

コメント

 ついに最終回、実は原作とはかなり違ったラストになっているが、起こっていることは同じで、しかも、これまで戦っていたミュウと人類が地球のために共闘する、という流れになっていくので、最後はそれとなく感動してしまう。
 だが冷静になってみると、かなり無理のあるまとめ方であることが見えてくる。特にキースの言動である。このストーリーでは、ミュウ側、ジョミーの姿勢というのはほぼ一貫している。劇的な変化を内側に起こすのは、実はキースの方なのである。最終回こそ、それを最も表現すべきだった。だが、脚本陣の間に一致した考えがなかったのか、あるいは曖昧なままにしていたためか、キースの考えそのものがかなり混乱しており、それがそのまま、混乱したラストへとつながっていった。

 今回は最終回ということもあるので、この作品のラストから、全体の流れを読み解いていこうと思う。

 グランドマザーの説明するところからすれば、こうである。人類は欲望のおもむくままに行動し、その母なる地球の環境を蝕み居住不能なまでにしてしまった。地球を破滅させた人類は「悪」である。そのため、SD体制によってすべてをコンピュータにより管理しなければならない。
 その管理体制の中で、自然発生的に生まれてきたのがミュウだった。このことはSD体制以前に予測されており、グランドマザーは、ミュウが出現したとしても、遺伝子中のミュウ因子を排除しないよう、プログラミングされていた。生まれたミュウを排除し続け、それによってミュウが根絶するなら、それでよし。もし生き残って地球にまで達するとすれば、地球の将来の主導権を握るのはミュウか、人類か、これは壮大な実験だったのだ、という。

 グランドマザーとの面談で、マザーはキースに、ミュウとは「交渉するもよし、焼き払うもよし」と判断を任せた。最終回は、マザーがキースに結論が出たかどうか尋ねるところからはじまる。
 1度目の問いに、キースは「まだ」と答える。ここから、ジョミーのマザーに対する問いかけと応答が始まる。
 そしてマザーは「このプログラムを変更できるのは、そのために作られた完璧な人間のみ」と答え、再びキースに問いかける。「人類は我を必要や否や」と。
 ここで再びジョミーが口をはさみ、人類とミュウは理解し合える、共存できるはずだと訴える。ミュウも人間も基本は同じ、というのだ。しかしキースは、それならなおのこと、「SD体制をやめるわけにはいかない、やめれば人類の欲望を宇宙全体に解き放つことになる」と答え、突然剣を取って、ジョミーに斬りかかるのだった。

 ここまでのやりとりでは、キースのマザーに対する答えは「SD体制は必要」ということになる。ミュウが生き残るには、人類を殲滅するしかない、というのが、ジョミーへの答えであった。

 つまり、キースはここまで来ても、いまだSD体制の信奉者なのである。マザーのいう「プログラムを変更できる完璧な人間」とは、まさにキースのことではないか。彼には、自分の意志さえあれば、それを変更できる権限が与えられているのである。だが、キースはいまだ、頑なだった。

 しかし、ふとここで首を傾げてしまう。人類は悪だ、ゆえに自由を奪い管理されなければならない。この作品って、そういう話だったっけ? 人類から迫害されてきたミュウが、生存権を求め、人類のふるさとである地球をめざす話ではなかっけ? 

 さて、ここで登場するのがスウェナ・ダールトンである。前話でキースは彼女にデータを送っていた。それを市民に向けて放送する。内容はキース自身が市民に話すもので、前述のミュウ因子が残された意味とミュウが結果的に生き残ったことを説明し、こう呼びかける。
 マザーにはミュウと共存するプログラムはない。これからは一人ひとりが自分で考えて行動せよ。

 キースは、グランドマザーの前では、ジョミーに対して「SD体制をやめるわけにはいかない、やめれば人類の欲望を宇宙全体に解き放つことになる」と答えているにもかかわらず、スウェナに託した放送では、それと逆のことを言っていることになる。これが、私が「キースの言動が混乱している」と思った理由である。

 あとから、作品を視聴しながら起こした文字おこしを見てみると、キースが「もう私の心に触れるな、おまえは時代遅れのシステムだ」と言っていることから、スウェナに渡したデータのキースが本心で、グランドマザーの前でそれとは逆の体制継続という答えを出したことは「マザーが心を操作した」ということなのだろう。しかし、そんな様子は絵を見ていてもまったく伝わってこなかった。

 結果的に、キースがマザーの前で出した答えにより、システムはフェーズ4に移行。ミュウの殲滅と聖地テラの消滅、というプログラムが実行され、メギドシステムが地球へ向けられる。そのとき、グレイブ率いる人類統合軍と、ジョミーから将来を託されたトオニィらミュウが共闘してこれを破壊し、SD体制は終焉を告げるという最後を迎えた。これは、フィシスの言葉によれば「人類が人として立ち上がる最後のチャンス」なのだという。
 青い地球の大地に十字架の形をしたメギドシステムの残骸が突き刺さっているラストシーンを見て、なんだろう、ミュウの物語ではなく、罪深い人類の裁きと解放、という話を私たちは見ていたのか、と複雑な気持ちになった。いつの間にか、テーマはすり替えられてしまったのである。

 そのことについては、原作からアニメ化するにあたっての再解釈ということで、納得することもできる。だが、グランドマザーの前でいきなりジョミーとキースが剣を交えて決闘を始める(ガンダムのラスト、シャアとアムロのフェンシング対決か!)とか、人類とミュウが、地球を狙うメギドを共闘して食い止める(逆襲のシャアのラスト、落とされた隕石を連邦とジオンが一緒になって止める、アレか!)とか、よそから借りてきたような話でまとめられてしまうのには、納得がいかなかった。れっきとした原作があるのなら、なぜ原作を土台にしないのか、それを解釈して別のラストにするなら、それはどこかで見たような場面でなく、オリジナルで提示するべきではないのか。

 ふわっとした感動があったあと、そんなもやもやが湧いてくるラストであった

「地球へ…」は、本当は何を描いていたのか?

 最後に、「地球へ…」という作品は本当は何を描こうとしていたのか、という私の解釈を述べておきたい。上記のように、テレビアニメ化された本作では、罪深い人類の裁きと解放みたいなテーマにすり替えられてしまったが、原作は、壮大な歴史と宇宙、そして未来社会の高度な管理システムを描きながら、社会や環境破壊の問題「ではなく」、もっとパーソナルな「親と子」の関係をテーマにしていたのではないか、ということである。

 キース(人類)は、親に従順であり、自分で判断せずなんでも親の命令通りにすれば、幸せになれると教えられた「子供」。
 グランドマザー(SD体制)は、子供を完全服従させ意のままにする、過干渉で支配的な親、いわゆる「毒親」。
 ジョミー(ミュウ)は、そんな毒親の支配に辟易し、絶縁して家を飛び出したキースの「きょうだい」である。
 ジョミーはしかし、いつか「毒親」がいるふるさと「地球」へ戻りたいと切望している。そのためには、自分の存在を許さない「毒親」をなんとかしなければならない。それに、「毒親」に意のままに操られているきょうだいのキースのことも気になる。できれば彼も自由にしてやりたい。そのために、ジョミーはキースに呼びかけるのだ。いい加減「毒親」を離れるべきじゃないのか?

 実のところ、キース自身もマザーが「毒親」ではないかと気づきかけており、心の内には、支配的な親に対する反抗心も芽生えていた。それを教えてくれたのはシロエであり、彼は毒親から自由である者を知るためにマツカを身近に置き続ける。そしてついにふるさとへジョミーがやってきたとき、彼が「毒親」に対決する姿を目の当たりにして、自らの意思で「毒親」から完全に離れ、自由で自立した人生を歩むことを、決意する。

 私が中学生の頃、原作から受け取ったテーマは、「親にたいしていい子に振る舞い、親に支配されて生きるのか、それともいい子をやめて自由に生きるのか」というものだった。上記の解釈からもたらされたものだ。実に、思春期の子供の心に刺さる話ではないだろうか。ジョミーやミュウらの生き方には自由と自立があり、キースは親から承認されることを至上とする「いい子」だった。だからこそ、キースのマザーへの反抗、そして最後に自らコンピュータを止める決断をするところに、大きく心を動かされたのである。

 だが、残念ながらアニメを制作した人々らは、そうは解釈しなかったようである。ここで、アニメ化に際して加えられた二人のキャラクター、グレイブとスウェナに注目してみたい。グレイブはキースの先輩、スウェナは同級生だが、いずれもキースのようにメンバーズエリートにはなれなかった。しかもキースの「ミュウ殲滅」に対しては批判的である。キースの中にあった「反抗心」が具現化したキャラクターなのだ。そして彼らは、最終回でキースに「なりかわって」彼のやるべきことをしてしまう。メギドを止めることも、キースが選んだミュウとの共存を市民に向かって公にすることも、グレイブやスウェナの手を借りずにできたはずである。しかし、そうはさせなかった。私には、グレイブとスウェナが、キースが自らの意志で「毒親」たるマザーから離れるのを、阻害したようにしか思えなかった。キースは二人のオリジナルキャラクターによって、骨抜きにされてしまったのである。
 それはなぜだろうか。私は、それは劣等感ではなかろうかと思う。自分は、そうはなれなかった。おまえだけにいい目はさせない。最後に一番「オイシイ」ところを持っていったのは、特攻してメギドを阻止したグレイブだった。劣等感を晴らすためでなかったら、それに一体どんな意味があったのだろう。

 それが、本作の最も残念だった点である。

評点
★★★
  力技で大団円に持っていった感あり。ふわっとした感動はあるが、見たかった結末ではなかった。



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