地球へ

地球(テラ)へ…(2007年:テレビアニメ版)
削ぎ落とされ、尖りきった原作を
鈍い感性で膨らませても名作にはならない

総評

(1)世界観
 スペリオル・ドミネント(SD)と呼ばれる統治体制により、人類が地球以外の惑星に植民し、増え広がった未来を描いている。地球を離れたのは、極度に環境破壊が進んだことで地球が汚染され、人間が住める場所ではなくなってしまったことによる。
 そして汚染された地球の浄化と再生を進める一方で、人間はコンピュータ「マザー」による徹底管理の下に置かれた。それが、SD体制である。自然懐妊ではなく人工的に(1980年代当時脚光を浴びた言葉で表現すれば、「試験管ベビー」)受精・出産が管理され、試験管から生まれた子供は、選ばれた養父母によって養育される。そして、その後も一人ひとりの進むコースを決定し、不都合な記憶は消去するという、マザーコンピュータの管理にゆたねた人生を歩むことになる。
 そんな中、突然変異として生まれたのが<ミュウ>、思念波を操るという超能力を持つ新人類だった。コンピュタ管理体制の中で、<ミュウ>は不適格者として徹底的に排除されるという存在であった。

 以上が、本作の描く世界であり、原作をしっかりと踏襲している。この部分だけを切り取ってみると、非常にハードなSF作品という印象だが、原作には、その外側をおおうような詩的な響きがあった。プロローグに置かれた冒頭の以下の詩句が、それを物語っている。

  地中深く眠れる獅子
  永遠の時のかなたに目覚め
  目覚め
  百億のひかり超えて
  地球(テラ)へ来たらむ

 地球から遠く離れた植民惑星、教育ステーションで育ち、14歳になれば、成人検査と称してそれ以前の記憶を消去されてしまう、というSD体制のもとで生きる人類にとって、過去を振り返り懐かしむ、ということ、それ自体がもはや幻想となっている。そんな世界の中にあって、はるか故郷の地球を懐かしむ記憶と、それをたよりに地球を目指す、というストーリーの根幹が、ここに示されているのであるが、本作では、この詩句が示されるのは17話のラスト、ジョミーが移住先のナスカから離脱して地球を目指すと宣言するときである(ミュウの船は当初も地中ではなく空中の雲の中に隠されており、状況にあわせて「地中深く」の部分は「宇宙(そら)深く」に変更されている)。
 そうしたこともあって、フィシスの記憶の中にのみ示される人類の故郷「地球」をめざす、という詩的なストーリーの流れが薄れ、人類とミュウとの生存をかけた対決、という一面が全体的に強調されているように感じた。

(2)構成
 原作は4部構成で、第1部ではジョミー・マーキス・シンが成人検査で不適格となり、ソルジャー・ブルーに導かれてミュウとしての能力を目覚めさせ、後継者となって旅立つまでを描く。第2部では、のちに敵としてたちはだかるキース・アニアンが、マザーコンピュータ「イライザ」の申し子として、異端児シロエ、友人サムらとの交流の中で成長していく様が描かれる。第3部では、廃棄された植民惑星ナスカへの移住を試みる中でジョミーとキースとが出会い、対決する運命へ導かれていくと同時に、フィシスの存在にまつわる謎が描かれる。そして第4部、SD体制の中で生まれた究極の存在であるキースとミュウの長ジョミー、その背後に立つ「グランドマザー」との対決とキースの最後の決断が描かれてゆく。

 原作は詩的な流れに乗せ、管理体制のもとあらかじめ幸福であることを保証された人生を生きる人類と、存在すら認められたい迫害下にあって自らの選択で自由に生きるミュウとの対比から、人はどう生きるべきか、という根源の問いを投げかける。壮大だが冗長ではなく、限られたキャラクターの生き様を通して人類と地球のあるべき未来を描く、研ぎ澄まされた作風で描かれた作品である。  これを2クール、全24話のアニメとして展開するため、本作では以下のような構成に組み立てられた。

 原作第1部:第1〜5話
 原作第2部:第6〜9話
 原作第3部:第10〜17話
 原作第4部:第18〜24話

 第1・2部までは原作から変更されたり加えられたエピソードもあるものの、ほぼ流れ通りとなっている。しかし第3部、キース・アニアンの地位が上昇するにつれ、「国家騎士団」「人類統合軍」「パルテノン」など人類側に、原作になかった組織が設定され、オリジナルキャラクターが重要な位置を占めたり、原作ではモブキャラだった人物のエピソードが追加され始める。結果的に彼らは第4部のラストで、キース・アニアンが担うべき重要な役割を「横取り」してしまい、それがラストに大きな影響となって物語を破綻させてしまったのではないか。原作の膨らませ方として、あまり適切ではなかったように感じた。
 またSFアニメの宿命なのか、戦闘シーンや惑星破壊兵器「メギド」の起動などに尺を使っているが、緊迫感を盛り上げる作劇、演出も乏しく間延びした印象が否めない。もともと原作では戦闘の描写は必要最小限にとどめられており、重要なシークエンスではない。むしろ戦いによって引き起こされる人々の「感情」に重きが置かれていたように感じる。そうした原作テイストを、うまく表現しきれていなかったこともある。  むしろ、マザーコンピュータにどれほど管理され、依存しているかという人類側の日常生活を描くことで、全体のテーマがより明確になったと思うのだが、その点が残念である。

(3)キャラクター
 原作の主要キャラクター、ミュウ側がソルジャー・ブルー、フィシス、ジョミー・マーキス・シン、そしてトオニィ、人類側がキース・アニアン、セキ・レイ・シロエ、サム・ヒューストン、ジョナ・マツカ。他にも名のあるキャラクターは登場するが、ほぼモブキャラといっていい扱いで、壮大なストーリーを描くのに、竹宮惠子は多くのキャラクターを必要としない、むしろ一人ひとりを掘り下げる、そんな作風ではなかっただろうか。

 本作では、こうした主要キャラを生かしつつ、モブキャラを大きく膨らませたり、オリジナルキャラクターを追加するなどしているほか、原作キャラにも若干の変更が加えられている。
 以下では、変更点について紹介したい。

ソルジャー・ブルー
 原作では、育英都市アタラクシアに潜むミュウの船に主人公ジョミーを招いたことで力つき死に至るが、本作ではほぼ寝たきりになりながらも生きながらえ、ナスカで最後に獅子奮迅の活躍をした末に倒れ散る。



ジョミー・マーキス・シン
 ソルジャー・ブルーがナスカで戦う流れから、原作でのナスカの惨劇を受け止めたことにより「目が見えず、耳が話せず、口がきけない」三重苦の状態になる、という設定がなくなった。そのため、ナスカ後に長として冷徹な一面を見せるようになる変化の説明が、いまひとつつかめなくなった感がある。

カリナ
 ジョミーがはじめてミュウの船に来たとき子供だった彼女と出会ったという設定になっている。そこで感じた、ジョミーの「ママ」に憧れて、母になる決断をする。




サム・ヒューストン
 原作では教育ステーションで初登場するが、本作ではジョミーの学友だった頃からが描かれている。キース・アニアンとの友人関係が丁寧に描かれ、その点でキースの「人間味」が原作よりわかりやすく表現されている。


スウェナ
 原作では教育ステーションで一瞬出てくるだけのモブキャラで、エリートコースから離脱して結婚の道を選んでいたが、本作ではその後が描かれる。離婚してジャーナリストになり、「宇宙鯨」と呼ばれる存在を追いかけているという設定である。しかし厳しい管理社会であるSD体制の中で、離婚という選択ができたり、言論の自由や報道の自由に立脚せねば成り立たない、ジャーナリストという職業があること自体、少々疑問に感じる。

セキ・レイ・シロエ
 原作では、教育ステーションにおいて、キースにつっかかってくる体制の反逆児であったが、本作では、その彼が実はミュウである、という設定が加えられている。また、育英都市で養父母に育てられていた子供時代のエピソードが加えられ、ジョミーがミュウである彼を(ブルーが自分に対してしたように)救い出そうとして果たせなかったこと、そのジョミーを大好きだった「ピーターパン」と重ねあわせ、「大人になんか、なりたくない」と願うキャラクターとなっている。

グレイブ・マードック
 原作にないオリジナルキャラクターで、教育ステーションではキース・アニアンの先輩として常に上から目線でマウントをとってくる鬱陶しい存在。キースを小馬鹿にしていたがメンバーズ・エリートにはなれず、ナスカ殲滅戦では、国家騎士団の指揮官として参戦したキースの「ミュウを殲滅する」作戦に異を唱えるなど、次第に存在感を増してくる。副官で恋人らしき女性ミシェル・パイパーもオリジナルキャラクターである。

 その他、竹宮惠子の他の作品に登場するキャラクターが多数カメオ出演している。私は竹宮惠子の作品によく通じているわけではないので一部しかわからなかったが(「風と木の詩」のセルジュ、「私を月まで連れてって」のニナ、おやえさんなど)、そういう遊びの部分は知っている人のは楽しいのではないだろうか。ただ、セルジュについていえば、カメオ出演というには目立ちすぎ(キースの副官)、別のオリジナルキャラにした方が良かったのではないかとも感じた。

(4)作画
 キャラクター造形は、原作をよく生かして違和感なく、良かったと思う。ただ、フィシスの口元が、ときどき「イラッ」とさせる気持ち悪い感じになっていて、残念である。
 一方で、作画は残念なことが多かった。絵はきれいだが、キャラクターに表情の変化が乏しく、声優の感情表現と顔の表情がちぐはぐな場面も多かった。また、予算不足なのかどうかわからないが、カット割りが単調で画面に奥行きがなく、キャラクターが棒立ちで演技をしていない、という感じが非常に強かった。作画の単調さのせいで、ストーリーまで単調に感じられてしまう部分もあったように思う。これは非常に残念なことである。

(5)テーマへのアプローチ
 原作は、SFという形を取りながら、心理学的・哲学的なテーマ、人が大人として成長していく過程でぶつかる「大人になるとは、どういうことなのか」という問いかけが掲示されていると感じる。それは本作において、どのように解釈され表現されたか、ということについて、少し見ておきたい。

「マザー」という存在
 母なる存在、というものが原作同様、本作でも非常に大きな位置を占めている。原作において感じたことは、この作品では「母」というものの「負」の部分を描いている、ということであった。マザーコンピュータを通して、人類は完全な従順、支配と依存という関係の中に閉じ込められ、自分の意志によって判断する、という生き方ができなくなってしまっているのである。
 そんな世界観にある本作で、第1話で14歳の誕生日を迎え、成人検査に送り出すジョミーの母の反応が、あまりにウェットであることに驚いてしまった。原作では成人検査前に「ミュウの疑いあり?」として当局に通報するなど、実にドライな「役割として母をしている人物」として描かれていたからである。この世界では「母」とは忠実に体制を維持する者なのだ。そして、「大人になりたくない」と叫んだシロエが反逆者とみなされたように、「子供を手放したくない」と悲しむ母もまた反逆者たり得る。
 原作で、子を失うことへのドライな反応が描かれたことは、ミュウの女性カリナが自然懐妊で産んだ子トオニィを失った(と感じた)ことで爆発させる感情と対をなしている。そのため本作でジョミーを失うことの悲しみを訴えた母には違和感を感じたが、のちに、レティシアの母として再登場し、娘がミュウだとして隔離されることになったとき、体制に反する意志を見せた。とすると最初の描写はこのことへの布石だったのか、と感じたが、そうともいえない曖昧な形で片付けられたことで、本作で描かれる「マザーという存在」のあり方をも曖昧にしてしまった気がする。

ミュウなるもの、人類なるもの
 ミュウとは、そんな「マザー」から排除され、抹殺される存在なのだが、逆から見ると、「マザー」への従属を拒絶した存在、ともとれる。セキ・レイ・シロエは積極的に、ジョナ・マツカは消極的に。そしてジョミーを長とするミュウ全体も、そうである。彼らは「マザー」の支配する世界から切り離されたがゆえに、自らの自由意志で生きる道を歩んでいる。外見は若いままで歳をとらない彼らだが、「マザー」の支配のもとで成長し、大人になり、年老いてゆく人類がいくつになっても「マザー」の子、であるのとは反対に、ミュウは大人であり、体制がなければ本来あるべき普通の人の生き方をしている人々である。
 本作では、ミュウ側がセキ・レイ・シロエが憧れた世界、ピーターパンで描かれる「ネバーランド」に例えられ、シロエは「大人になんか、なりたくない」と願って教育ステーションから逃亡を試みた。だが、その意味するところは「マザー(コンピュータ)の子どもとして生きたくない」ということであったはずだ。そう思うと、ピーターパンを引用することで彼の心情を表現することが、最適だったとは思えない。かなり表面的な理解からの表現にとどまり、作品世界を深めるものになっていないと感じた。

異なるラスト
 「マザー」に支配される人類=子供、「マザー」の支配から逃れたミュウ=大人、という解釈からのズレは、ラストに向かって次第に大きくなってゆく。その兆候が、ナスカから離脱したミュウの船がアルテミシアに向かった場面である。ジョミーは育英都市アタラクシアで、自らの成人検査を行ったコンピュータ「テラズナンバー5」を破壊するが、本作ではその目的は地球の座標データを得るため、とされている。しかし原作はもっとストレートで、マザーコンピュータを破壊することで体制そのものを崩壊させることにある。彼らミュウの敵は、人類ではなく、それを支配し子供のままで飼い慣らしている「マザー」なのだ。
 しかし本作ではそうはならず、ミュウと人類、どちらが地球に生きるべき存在なのか、あるいは共存できるのか、という結末へと収束していった。そうなったとき、原作とは異なるラストとなってしまうのも、また必然である。本作の展開から、原作のラストは導けなかったであろう。  本作のラストで、一番印象に残っているのは、コンピュータ「グランドマザー」が起動させた惑星破壊兵器メギドに特攻して果てるキースの先輩、グレイブ・マードックであった。かようにオリジナル・キャラクターが最後に目立つというのは、最悪のパターンだと私は思う。なぜ目立つかというと、様々な要素で膨らましすぎてまとめきれず、破綻したラストのなかで唯一、わかりやすい場面だったからだ。そして、これといった余韻もなく物語は終わりを迎えた。テーマを読み違えてしまったがゆえの、偉大なる傑作の凡庸なるアニメ化、というしかない。

(6)良かった点
 最後に、本作で良かったと思った点をあげておこう。
 原作より厚く描かれていたのが、キース・アニアンと友人サムとの関係である。サムはミュウとなったジョミーとの遭遇で精神を病み、子供に還ってしまう。そんなサムを、キースは国家騎士団のエリートとなっても、見舞い続けるのである。サムを通してキースの人間的な一面が描かれたことが、彼の部下となったジョナ・マツカとの関係の中にも生きており、とても良かった。
 もう一つは、ジョナ・マツカというキャラクターである。原作に親しんでいた10代の頃、このミュウの自覚なくキースの配下となって痛めつけられる弱々しい少年があまり好きではなかった。しかし今回、本作を通してまったく違った一面に気づくことができた。ミュウ探索のためナスカの地上に降下したキースがピンチに陥ったとき、国家騎士団の若きエリートたちは言いつけ通りの判断しかできなかった。自らの判断で、単身彼を助けに行ったのはマツカである。彼は「マザー」に支配されないミュウ、自分の意志で決断できる大人だったのだ。弱々しい外見と肉体であっても、その心は強い。最後には愛するキースを守るため自身の命を犠牲にできるほどに。

 音楽はあまり印象に残っていないが、後期エンディングテーマ、CHEMISTRYの「This Night」は曲調の切なさに余韻があり、とてもよかった。これだけは何度も聞きたくなる。

評点 ★★★ 偉大なる傑作の凡庸なるアニメ化、テーマのすり替えはよくない。


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