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 宇宙戦艦ヤマト(1974)各話レビュー →宇宙戦艦ヤマト2レビュー

 第26話「地球よ!!ヤマトは帰ってきた!!」


あらすじ

 イスカンダルを旅立ったヤマトは一路地球を目指す。艦内では放射能除去装置「コスモクリーナーD」の組み立て作業が進められていた。宇宙放射線病に冒された沖田艦長は、自身の死期が近づいてきたことを悟っていた。しかし佐渡に、地球を見るまでは絶対に死なないと望郷の思いを吐露する。順調に地球への帰還を続けていたヤマトだが、辛くもガミラス地底都市からの脱出に成功したデスラー総統が波動砲並みの威力を持つ「デスラー砲」でヤマトを狙っていた・・・。

コメント

  地球か・・・何もかもみな懐かしい

 最終回は復活のデスラーによる「デスラー砲」攻撃、ワープしたヤマトに突っ込むデスラー艦、放射能ガス注入とヤマト艦内での白兵戦、森ユキの「古代くんが死んじゃう!」、コスモクリーナーD作動とユキの死、嘆き悲しむ古代と脱出したデスラー最後の「デスラー砲」攻撃、としっぽの先まであんこの詰まったたい焼きのようにエピソードがギュッと詰まっており、畳み掛けるかのような展開である。しかし、年月を経て顧みたとき、それらのエピソードは見返してみるまでほどんと心に残っていなかった。おそらく見た人の誰もが、ただ一つのことだけを記憶しているのではないだろうか。
「地球か・・・何もかもみな懐かしい」と赤茶けた地球を見ながらつぶやいた、沖田十三の死。なぜなら、この沖田の死に様こそが、ヤマトの地球への帰還を象徴しているからである。

 古代や島が第一艦橋で、目前に広がる銀河の大パノラマを見ながら地球へ思いを馳せていたその頃、佐渡の診察を受けていた沖田は、人は死んだらどうなるのか、と自らの死期を悟ったかのような言葉を口にする。縁起でもないことを・・・と沖田を励まそうとする佐渡に対して、しかし沖田は言うのだ。わかっている、しかし地球を見るまでは絶対に死なない、と。

 そしてその言葉どおり、最後の苦闘を切り抜けて、艦長室のドームから赤い地球を仰ぎ見たとき、沖田は一人、先に逝った家族の写真を手にしながら、その一生を静かに終えたのだった。最終回は、このエピソード一つあれば、ある意味すべてを語り終えることができた話であった。

 25話、26話はわずか2話でイスカンダル到着、地球への帰還という折り返し以降の話が展開していくために、やや詰め込み過ぎの感が否めない。中には、果たしてこれは必要だったのだろうか、というエピソードも少なくない。例えば古代進の兄、守がスターシャに救助されて生きてた、というエピソード。兄の死をめぐって沖田艦長との間にあった確執を乗り越える、という古代の成長物語が、何か損なわれたような気がしなくもない。
 デスラー砲が発射され、島の回避が間に合わない、というとき真田が「こんなこともあろうかと」と用意していた空間磁力メッキで波動砲並みのエネルギーを跳ね返してしまう。結果的にデスラーはこれでやられてしまうが、こんな装備があったらヤマトは完全に無敵だ。
 デスラーが突入してきた際に放射能ガスが注入され、「古代くんが死んじゃう!」と森ユキがコスモクリーナーを作動させる場面。ユキは自分の命を犠牲にして古代を助けるエピソードだが、死んだユキが蘇るという奇跡が最後に起こり、哀しみに沈んでいた古代が喜びに包まれて物語は終わる。恋愛感情をお互いに持っていながら、互いにそれを口にはできない二人をなんとか結びつけるためのエピソードだろうが、霊安室からユキの亡骸を抱いて第一艦橋に連れてくる古代の姿があまりに痛々しく、そこまでしなければいけないのか、と感動するより呆気にとられる方が大きかった。

 しかし、赤茶けた地球にヤマトが吸い込まれるように消えてゆき、地球がその美しさを取り戻して物語が幕を閉じたとき、何かが腑に落ちる感じに包まれた。そうなのだ。ヤマトとは、死んだものが蘇る、癒しと再生の物語だったのだ、と。


 ヤマトの基となった戦艦大和は、水上特攻という無意味な作戦のために出撃し、目的を果たさぬままに撃沈された。その悲劇的な最期は戦後になってはじめて多くの人の知るところとなった。この当時世界最大、最強と謳われた戦艦が、沈まずに戻ってきていたら、と誰もが思ったことだろう。地球滅亡の危機を前に、そんな戦艦大和がよみがえる。死に瀕した惑星に、よみがえりの命を持ち帰るために。それが、この物語の本質であって、決して宇宙戦争がメインの物語ではないのだ。

 そんな中で、死んだと思われていた命が物語の最後によみがえる。私はそこに、まだ癒され切っていない、戦争を知る世代の心の痛みを見た気がした。先の大戦で、多くの命が失われた。イスカンダルの平原を埋め尽くす墓標は、その象徴のようにも見える。本作の筆を取った人の中にも、兄弟を戦地で失い、あるいは家族を戦禍で亡くした人がいただろう。「生きていて欲しかった」という切なる思いが、彼らを突き動かしていたということがあったかもしれない。敵の侵略によって死に瀕した地球が、ヤマトと沖田、そして若者たちの勇気ある航海と戦いによってよみがえる。それは、敗戦によってどん底に沈んだ社会が高度経済成長によってみるみる豊かになっていく1970年代途上にあって、人々を勇気づけただけでなく、繁栄の影に忘れ去られようとしていた過去の痛みに触れ、そして癒すという不思議な力を与えたに違いない。

 地球を前に死んで行く沖田は、そうした「過去の痛み」の象徴であり、その死によって私たちは癒されたのだ。沖田の死と引き換えによみがえった森ユキには、そんな心情が込められていたのかもしれない。


おわりに

 日本海軍は、かつて数百隻の艦艇を擁したが、いま若い人たちの間でも名を知られているのは大和ぐらいであろう。数年前に沈没位置が確認され、水中カメラで撮影した船体の一部が放映されたことや、「宇宙戦艦ヤマト」の影響もあるのだろうが、やはり悲劇的な最期を遂げた世界最大の戦艦であったからだと思いたい。ーーーラッセル・スパー著・左近允尚敏訳「戦艦大和の運命」訳者あとがき

 本家「大和」の戦史のあとがきに題名が挙げられるほどの影響を与えた「宇宙戦艦ヤマト」。レビューを通して、なぜそれほどまでに、この物語が多くの人に受け入れられ、共感と感動を呼び起こしたのかが少しでも伝えられたなら、それに勝る喜びはない。初回放映からすでに40余年を経て、放映当時とも、また上に掲げた「戦艦大和の運命」が出版された1987年とも大和とヤマトをめぐる状況は大きく変わった。

 戦艦大和はその後、沈没地点で潜水調査が進められ、艦体が真っ二つに分かれて沈み、艦橋が艦首の下敷きになっていたことが明らかになった。沈んだ艦体を引き揚げて宇宙戦艦に改造するという物語は、もはや非現実のものとなってしまった。
 一方のヤマトはその後シリーズ作品となり、2013年には第一作の本作をリメイクした「宇宙戦艦ヤマト2199」がテレビ放映された。しかし上記のように戦艦大和は改造不可能であるため、大和に似せて造られた新造戦艦という設定となっている。そうしたことから、ここで述べたような「蘇った船」に乗せて語られた癒しと再生の物語とは似て非なるオカルト作品となっている、と評しておこう。

 もう一つ、特記しておかなければならないのは、2011年に起こった東日本大震災と、それに伴う福島第一原発事故である。これによって、SFアニメの話と思われていた「放射能除去」が現実に望まれる世界となってしまった。40数年前、「ヤマト」が描き出したのは放射能汚染によって滅亡の危機に瀕した地球であった。それが、今現実のこととして起こっているのだ。しかし、そのことはまるでなかったかのように、今、忘れ去られてしまっている。何より福島第一原発事故の発生後に制作された「ヤマト2199」では、なぜか、ヤマトの世界の根幹をなす「放射能汚染された地球」という設定がきれいさっぱり、なくなってしまっていた。

 ヤマトの世界で、ガミラスが地球を放射能汚染させたのは、ガミラス人が放射能がなければ生きられないという設定があったからである。しかし、本作を見返してみると、実はそうした設定が登場したのは最終回である26話が最初で最後なのだ。13話ではガミラス軍のパイロットを捕虜にするが、そのとき、ガミラス人捕虜はヤマト艦内でごく普通に生活していた。つまり、ガミラス人は放射能がないと生きられない、というのは「後付け設定」ということになる。

 しかし、「ヤマト」を見た多くの人には、それが強く印象づけられているのではないだろうか。それは大きなインパクトを与える設定だった。それは、ガミラスの地球侵略の目的をより明確にするものだったからである。地球をガミラス人が居住可能な星にし、同時に先住民である地球人を抹殺するには放射能をばらまくことが実に効果的だったわけである。そしてそれは、単にガミラスが「悪いことをする悪の帝国」ではなく、民族の生存をかけた戦いという大義のために戦っていることを示すものとなったのだ。

 我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった。

 古代進を通して語られたそのメッセージは、相手の大義を理解してこそ実現可能なものである。ガミラスが地球に対して行った行為は許しがたいものだが、制作者は、なぜそうしなければならなかったのか、相手の立場に立って筋の通った理由を考えたのだろう。その結果としてこの後付け設定が出来たのではないかと推察する。では、リメイクするとき重視しなければならないのは何だろうか。本作が全力で訴えようとしたメッセージを、より強いものにするために付与された設定こそが、重要ではなかっただろうか。ストーリーテラーには、辻褄合わせよりももっと大切にすべきことがあるはずなのだ。


関連レビュー
「宇宙戦艦ヤマト2第26話 ヤマトよ永遠に」



私たち、結婚式もお預けだったのよ。───── 森雪


あらすじ

 都市要塞との死闘の末、出現した超巨大戦艦はヤマトを大破させ、戦闘不能に陥れる。怒りのまま、巨大砲で地球を破壊し始めたズォーダーに古代は最後の手段に打って出るが、その時、島を抱きかかえたテレサが姿を表す。


島を引き渡すテレサ

Aパート:超巨大戦艦の攻撃、ヤマト退艦
Bパート:テレサ出現、ズォーダーの最期

コメント

 出現した超巨大戦艦は圧倒的な力ですでに弱っていたヤマトをボロボロに叩きのめす。この砲撃シーンは2で加えられたもので、設定されているこの艦のスケール(全長8キロ)に比べ、攻撃力がやや弱いような気がするが(設定通りなら砲台だけでヤマトとほぼ同じ大きさがある)、実は設定よりやや小さい艦なのかもしれない。それでも遥かに巨大な艦であることには違いなく、ヤマトを戦闘不能にしたズォーダーは巨艦の主砲で地球そのものを破壊しようと攻撃を開始する。が、この砲もヤマトの波動砲より遥かに巨大な口径のはずだが連射できる割に破壊力はそこそこな感じである。映画では一発で月を打ち割るほどの威力だったが、そこまでの威力はないようだ。
 いや、この場面は何もかも失った古代が己の命を武器に最後の突撃を敢行する場面なので、巨大砲の威力がどうのとか言ってはいけないのかもしれない。が、これこそが情緒的な「さらば」で筆者が一言言いたかった部分で、古代が突撃するのもヤマトが自爆するのも勝手だが、沖田の言い分はどうであれ、戦闘不能のオンボロ戦艦がヨロヨロと突進してくるのをあのハリネズミな巨大戦艦が何の迎撃もせずに体当りされるのは間抜けすぎると子供心でも思った部分である(そのせいか実写版では巨大戦艦に相当するガミラスミサイルはしっかり迎撃している)。
 ちなみに現実の特攻機の命中率は極めて低く、数%くらいしか突入できなかったし、艦を撃沈し得たのはさらに少ないパーセンテージにとどまる。突撃したからといって戦闘目的を達成できるとは限らない。「さらば」ではヤマトの最期は活写されなかったので、あのラストではヤマト沈没後、地球が彗星帝国に占領されたとしても違和感のないラストだった(良く似た場面のある蒼き流星レイズナーという作品では本当にそうなった)。2の場合はテレサが超能力を解放し、超巨大戦艦を溶解させ、確実にズォーダーを殺している。テレサ頼みは安易な気がするが、テレザートでもしていたことだし、この魔女がこのくらいのことはできることは説明済みなので、安易だが、受け容れられるラストである。
 その辺スタッフにも違和感があったのか、この回では「ヤマトが負けた」ことが古代やテレサの台詞を通じてやたらと強調されている。が、この勝敗論は川中島の戦いで上杉謙信と武田信玄のどちらが勝ったと議論するような結論の出ないもので、正直、どちらでも良いことである。彗星帝国は滅び、古代らはヤマトとともに地球に帰還する。続編が作れるのであり、その点だけ見ればヤマトが勝ったのである。この辺、審判の八百長判定を見るような見苦しさがあるが、話の流れは良く、疑問を感じる部分でも「さらば」より見応えがある。この時すでにヤマト2の制作スタッフは崩壊状態だったと思うが、それでも何とか最終回には漕ぎ着けたのである。


ラストのズォーダーの狼狽ぶり

 蛇足だがラストの場面、テレサに滅ぼされるズォーダーの周章狼狽ぶりは、やはりこの人物は若い頃テレサと何かあったのではと思わせるものだが、その事情は永久に説明されることなく、彼は巨大戦艦とともに宇宙の藻屑となることになる。筆者としてはテレサはこんな程度では死なないと思えるのだが、以後の作品にも出てこないので、一応ヤマトシリーズでは彼女は超能力を使い果たして死んだという解釈にしておく。なお、後に瀕死の島がテレサを差し置いて森雪への恋情を告白するのは完結編である。この場面を見て、「テレサは!」と画面を指差して叫んだヤマトファンは(映画館ですらざわめいた)少なくなかったことを付け加えておく。
(レビュー:小林昭人)

評点
★★★★★ 前話と同じく素材が良いのでこの点数で可。

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