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 宇宙戦艦ヤマト(1974)各話レビュー

関連レビュー
「宇宙戦艦ヤマト2第27話 新たなる旅立ち(テレフューチャー版)」



私はスターシャを愛しているのだよ。───── デスラー


あらすじ

 ヤマトと戦い、古代との間に奇妙な友情を覚えたデスラーは新天地を探す旅に出る。一方、修繕されたヤマトは1月後、新乗組員を加え練習航海に出港する。旅の途上、ガミラス星を訪れたデスラーは謎の船団が母星の希少鉱石を採掘している様子を目にし、怒りに任せて船団を攻撃する。それは新たな敵、暗黒星団帝国の採掘船団だった。デスラーの戦闘を契機に、ヤマトをも巻き込んで新たな戦いが開始される。


オープニングは悪くないのだが、、

コメント

 レビューのタイトルは「第27話」としたが、1時間半のこのテレフューチャー版は実はヤマト2の終了後4ヶ月で作られた作品である。そう書いてもほとんどの者は信じまい。そう思えるほどこの作品の放送は唐突で、内容も前の作品とはまるで違う作品になっているからだ。が、スタッフもほとんど同じなので、ここではこの作品はヤマト2のスタッフが作った、ヤマト2のほとんど延長線上にある作品として捉えることにする。
 実を言うと、冒頭のシーンだけ見るならば、この作品はそれほど悪いものでもない。デスラーが残った将兵にガミラス再興を訓示するのはこの総統ならそうであろうし、傷の癒えたヤマトに新乗組員が配属されてというのも前作からの流れとしては自然だ。が、ガミラス星を再訪したデスラーがスターシャを思い出すあたりから雲行きが怪しくなる。パート1、2を通してみてもデスラーがスターシャに恋情めいた感情を抱く余地はなかったはずである。続いて登場する全員禿頭の謎の宇宙人。お前ら一体誰だ? そして戦闘の最中に消滅するガミラス星、ここまでで「えええっ!」という感じである。


お前ら一体誰だ?

 冷静に見てみると、シナリオや台詞回しについてはベテランの山本英明である。ナレーションも2に引き続き木村幌で、音だけ聞いていれば2の続編としても違和感はない。新曲も紹介されている。が、何となく「違う」と感じるのはスタッフの疲弊で絵がガタガタだった2のラストと比べ若干改善されたものの、アングルなど平坦でヤマトにしては構図がやや陳腐であることがある。ヤマトの乗員は新人だが、作画スタッフもアニメータ学院の新卒と思われ、この違和感はやはり前作と同じタイトルながら中身はベテランが消え監督が新人ばかりを率いていた作品、「機動戦士Zガンダム」に通じるものがある。どうも本作はプロデューサの西崎氏が前作のスタッフからクセのある松本零士や藤川桂介、安彦良和などを除き、アニメータ学院の新卒を加えて新作として仕切り直した作品のようだ。
 本作では松本美女はスターシャしか出ず、それも自爆して作品世界から姿を消してしまう。デスラーも消してしまいたかったらしく、作品では彼はゴルバ砲口で死にかけるが何とか生き残っている。新しい作品では古い松本零士のキャラは棲んでいてはいけないのだ(現にデスラーは続編の「ヤマトよ永遠に」では出なかった)。この作品が誰のために必要だったかといえば、それは視聴者のためではなく、松本らを排除してヤマトシリーズを続けたい西崎氏のために必要だったのである。


設定もガタガタ(ありえない惑星ワープ)

 メカについても松本色の強い前作(松本は設定担当でもある)とは全然違う、より硬質でメカニカルな線の敵艦がガミラス艦隊を次々と撃破していく。宇宙戦艦ヤマトから松本零士と彼に同調するスタッフの色彩を脱色した作品、それがこの作品の正体だ。西崎が新しく雇った絵の上手いアニメータ学院の卒業生を並べ、これまで作品を支えてきた松本や安彦に「お前たちの代わりなどいくらでもいる」と言い放ち、お払い箱にした作品だ。それは人が人に対してやって良いことか。
 藤川桂介にしてもヤマト2で彼はでしゃばりすぎた。ゆえに暗黒星団帝国との戦いも、藤川にはあった戦略戦術のリアリズムなく進む。いくらガミラス星が失われたからといって、軌道を外れたイスカンダルがワープするはずないではないか。「さらば」でキレの良い演出を見せた舛田利雄ももういない。戦艦ヤマトはデタラメに強く、それが何十隻もいる暗黒星団帝国の一個艦隊でも嘘くささを感じるほど無敵だ。それに巨大戦艦プレアデスとヤマトの戦闘も、戦闘というよりタクティクスのない派手な武器と武器との応酬で、これではアブトラザ・ブッチャーやザ・グレート・カブキが出てくるプロレスみたいだ。それに何でデーダーがヤマトの武器(波動砲)を知っているんだ?


なぜ彼らが必要なのか?

 パート1で守がスターシャと共に視聴者の前から姿を消した時、これはそっとしておけば良かったというものであった。滅びゆくとはいえ惑星の寿命は長く、二人のその後は続編でヤマトが戦う侵略者や星間戦争には関係ないと言えるものであった。本作でそれをわざわざ引きずり出して星ごと抹殺したことには視聴者は制作者の神経を疑ったし、冒頭でガミラス再興を掲げながら私情で部下のガミラス兵を死地に追い込むデスラーというのも、この人物はこんな人物じゃなかったはずだがというものである。そもそもこんな人物なら、彼はなぜ彗星帝国に膝を屈したのだろう? それにスターシャ、これはどう見てもパート1の彼女ではない。孤独な惑星でヤマトを扶けつつ、何年もガミラスと対峙していた女王がゴルバごときに屈するような、こんな弱い女であるわけないではないか。


お化けになった母親に語りかけるサーシャ、シュールすぎていけない。

 イスカンダルは自爆し、ヤマト初の霊体となったスターシャは霊にしてはやけに饒舌に守や娘のサーシャに語りかける。だいたいお化けが10分間もヤマトやデスラーの前で大写しに独り語りというのもシュールすぎるし、ヤマト2では絶対にありえないことであった。そしてラストの島倉千代子の独唱、プロデューサの西崎氏はヤマトで大金持ちになったので、その豪遊で「六本木のデスラー」と呼ばれていたらしいが、これは確かにそういう趣味である。その後、銃刀法違反で投獄された後、西崎氏が自身が所有する「やまと」と名付けたモーターボートから転落して死亡するのはこの作品から30年後の話である。



 この作品ではプロデューサ西崎氏の作品破壊に憤りつつ、苦々しい気分でレビューした筆者が想起したのは安部龍太郎の小説「レオン氏郷」。信長に心服して彼の小姓になった日野の豪族の子が蒲生氏郷になり、信長の死後、伊達政宗に毒殺される話だが、その目に世界を見ていた信長に対し、後を襲った秀吉にあったものは欲と見栄だけであった。秀吉は佐々成政などかつての信長の部下を次々と奸計に掛け処分していくが、氏郷も狙われ、やがて彼も伊達政宗を通じ、間接的にその毒牙に掛かることになる。人の集まり、特に宇宙戦艦ヤマトのように卓越した仕事をしたそれも、互いに有能で個性の強い人間の集まりは、やはりそのままではいられなかったものなのだろうか。
(レビュー:小林昭人)

評点
★★★ 宇宙戦艦ヤマトを改悪した大愚作、しかし、ベテランの手練は残っており、作品単体としてはまだ見られない話でもない。逆にそれがファンにスタッフの質の劣化、作品の変質を見逃させたことがある。


 追記 根本的に思想の異なる両作品(さらば、ヤマト2)

 命というのは、たかが何十年の寿命で終わってしまうようなちっぽけなものじゃないはずだ。この宇宙いっぱいに広がって永遠に続くものじゃないのか。俺はこれからそういう命に自分の命を換えに行くんだ。これは死ではない。───── さらば宇宙戦艦ヤマト

 沖田さん、生きて生きて生き抜けと言うあなたの教えには背くことになるかも知れません。でも僕はこの命を武器にたった一人でも戦い抜きます。それが僕に出来るたった一つの償いなのです。許してください、艦長。───── 宇宙戦艦ヤマト2


 ヤマト2はその前年の人気作「さらば宇宙戦艦ヤマト」のTV版で、表現形式は異なるものの、基本的に両作品は同じものというのが通常の理解であるし、筆者も長いことそう思ってきたものである。「さらば」に出てきた戦艦アンドロメダは2でも出てくるし(むしろさらばより活躍している)、土方やズォーダー、バルゼーなどのキャラも多少翻案されたものの、同じ役柄のキャラクターとして使われている。が、実際にレビューをしてみると、両作品はその根本思想において異なるものという結論になる。


目を輝かせて特攻の意義をクルーに語る古代(さらば)

 引用はラストで古代が敵巨大戦艦に特攻を決意する場面であるが、「さらば」と2ではその内容が大きく異なっている。「さらば」で古代が生き残った仲間に語った内容は仏教の輪廻の思想を含むものである。が、ヤマト2はそうではなく、先ず古代には降伏を決めていた地球市民に対する自責の念があり、その責任を取るという考えで自己犠牲を決意する。それぞれ同じようなストーリーの積み重ねを続けてきた両作品において、結論とも言うべき部分でここまで大きな違いが生じたのはなぜだろうか。


乗員を退艦させ、一人沖田の霊に詫びる古代(ヤマト2)

 レビューで作品の分析を続けていく過程で、筆者はヤマト2という作品が「さらばの焼き直し」という筆者の先入観と異なり、実は番組の進行がてら、作風からいくつもの危機を迎えていたことを看取している。「さらば」は日本映画史上空前の成功作だが、その成功を巡っては、やはり関わった人間の多くに様々な軋轢を生み出していた。作品を企画し、強力なリーダーシップでヤマトブームを作った西崎氏は名士となって堕落し、デザインでヤマトのアイデンティティを築いた松本零士は途中から作品への興味を失った。中盤以降は脚本家の藤川桂介氏が事実上作品を主導していたのであり、残るスタッフはバラバラだった。引用に見られる根本的な思想の違いは、西崎氏と藤川氏、1934年生まれで年齢も同じこの二人の人物の違いと見ることができる。
 晩年の西崎氏は石原慎太郎と親しく、また、若い頃は創価学会の仕事などし、ある種の考え方の人々とごく親しい関係にあった。それは今は日本会議と呼ばれている一群の人々の系譜であり、これは作家の山岡荘八が基を作り、戦後史を占領によって塗り替えられた屈辱の歴史と捉える人々である。同じ作家の石原は山岡の思想的な後継者である。「さらば」で古代が語った転生の思想は、その淵源を山岡らが戦後も密かに奉じた皇国史観、創価学会もその一派である日蓮宗に求めることができる。岸信介と親しく、大本営の従軍作家で人気作家の山岡はその豊富な印税収入で地下に旧軍の高官や士官らからなるグループを主宰していた。


「さらば」で登場した「英雄の丘」にはモデルがある。岸らが東京裁判で刑死したA級戦犯の骨灰を回収して祀った殉国七士廟(愛知県西尾市)がそれである。

 それに対し、西崎氏と同年の藤川氏は戦後民主主義の子であった。10歳で敗戦を経験し、戦後の民主化教育にも適応した彼は慶大卒のインテリとして放送畑で活躍していく。いわば丸山真男の言う第二階層の人であり、これは学者や知識人、ジャーナリズムといった知識階級である。放送作家で成功していた彼は山岡のカルト地下結社や宗教団体に恩を着る必要はあまりなかった。存在を知っていたどうかも疑わしい。その藤川氏が名士となり制作現場より六本木のバーにいることの多くなった西崎氏に代わり、ヤマト2の中盤以降を主導したのである。
 これでは結論が違って当たり前と筆者は思うが、驚くのはここまであからさまな思想の違いがありながら、プロデューサの西崎氏がこれを放置したということである。西崎氏が山岡らのグループも含む様々な場所で会得したやや粗い戦前教育の焼き直しのような思想を含む作品が、藤川の手により戦後民主主義の権化のような作品に作り替えられてしまったのだ。これは決定的な違いだったが、興行の成功とそれによる富で堕落していた彼が藤川の反乱に気づいたのはかなり後になった。おそらく指摘され、それに気づいた彼は藤川を制作陣から外したが、その時すでに最終回は制作され、テレビでオンエアされていた。


宇宙戦艦ヤマトの原型、梶原一騎原作の「新戦艦大和」

 宇宙戦艦ヤマトという作品は、結局どちらの思想に属する作品だったのか、筆者はパート1のそのプロット、作品のありようからして藤川の解釈が正しいと思うし、やはりこの作品は戦後民主主義をそのバックボーンに持ち、視聴者にモデルとなった古い戦艦が元々持っていたそれでない新しさを感じさせ、「大和」を「ヤマト」に変えたこと、それゆえに支持された作品である。戦艦大和が空を飛ぶ話はヤマト以前にもあったが、それが大きな支持を得ることはなかった。いかにハイテクで武装しようとも、艦首に菊の紋章を付けた戦前そのままのような艦が活躍する話に視聴者は興味を示さなかったのである。
 が、「さらば」では西崎氏はラストで少し異なる思想を挿入した。2で藤川がそれを取り去り、作品をあるべき姿に戻したというのが本当だと思うが、完全に取り去られたわけではなく、その歪んだ亡霊とその変形物が現在のヤマト2199とか2202といった異形の作品になって現れていることは周知の通りである。我々がこれらの作品に感じる何とも言えない違和感、異物感、不快感の淵源は、元を質せばプロデューサの西崎氏が「さらば」で宇宙戦艦ヤマトという作品に人目を忍んで挿入した、それまでのこの作品の思想とは異質な、筆者が引用した一文にあったのである。


死者の霊語りが定番となった後期ヤマトシリーズ

 2で藤川がラストを書き直した後、藤川らを外し、半年も経たずに制作された続編「新たなる旅立ち」ではスターシャは自決した後、霊体となって主人公らの前に登場する。まさしく「さらば」で古代が一同に語った通りの死にざまであり、「さらば」よりもさらに直截的な表現である。以降、このシリーズではこの死が終わりを意味せず、死者がそのまま宇宙と合一するといった演出、あるいは沖田のように一度霊界に足を踏み入れながら復活するなど、霊と宇宙が混然となった宇宙がシリーズの定番となっていく。


ヤマト3では  ヤマト乗員、完結編ではヤマト本体さえ霊化

 ヤマトの変質は以降はこの作品に関わることが少なくなっていった藤川氏のその後にも少なからぬ影響を及ぼした。アニメブームの全盛期に藤川は放送界から離れたが、後に彼が執筆したラノベの元祖、ラノベと言うにはあまりにも大部で重厚な作品である「宇宙皇子」では、西崎氏が半可通の理解で曖昧にしか表現できなかった輪廻転生の世界がヤマトのそれとは比較にならないほど緻密に表現されている。作風から見て、彼と山岡らのカルト集団の間には接点などなかったが、「宇宙皇子」では古代社会と仏教世界をモチーフに藤川が独自の解釈を加えた「あの世界」の起承転結の構図が40巻に渡って描かれるのである。


藤川の大作「宇宙皇子」

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