レビュー
1:なぜ本作は「ハーロックじゃない」と感じるのか
松本零士原作のアニメ「宇宙海賊キャプテンハーロック」がテレビ放映されたのは1978年。それから35年の時を経て、CGアニメ映画として製作された。テレビ版の全話レビューをした、ということもあり、その作品がどのように解釈され、再構成されているかを見るために視聴した。
といっても、昨今過去の名作をリメイクし、ことごとく破壊しつくしているアニメ界のターミネーター、福井晴敏が脚色を手がけている、というだけあって、はなから期待値は0だったが、見終わったあとは、その想定をさらに下回るものだった。
一言でいうと、このストーリーに果たして「ハーロック」が必要なのか? 別にオリジナルでやればええやん!というほどの内容だった(しかも面白くない)のだが、そう感じた理由について説明しようと思う。
(1)ハーロックの「変えたい」世界がない
原作のハーロックは、腐敗し堕落しきった地球連邦政府に見切りをつけ、宇宙の海へと漕ぎ出した無法者である。しかし、その忘れがたい故郷を守りたい、腐敗から救いたいという思いを持ち続け、宇宙からの侵略者、マゾーンとの戦いにアルカディア号単艦で挑んでいるのである。
ところが、本作はそもそもそういう世界とは一変しており、腐敗した地球連邦はなく、聖域化した地球があるのみである。宇宙人も襲ってこない。聖域化した地球は特殊な宗教国家になっているが、強力な武装もあり、ハーロックの変えたいような世界はどこにも見当たらない。
(2)オリキャラの主人公が話を進める
主人公はヤマという青年で、原作の台羽正に雰囲気は似ているが、まったくの別人である。兄であるガイア・フリートの長官イソラの命令でハーロック暗殺のためアルカディア号に乗り込むが、アルカディア号に乗り込みハーロックに危機一髪のところを助けられたりするとすぐ感化され、一方兄と連絡を取ると今度は兄に感化され、結局彼がどちら側につくかで話が展開していく。ハーロックはほとんど置物か背景である。
(3)ハーロックは自分に絶望した不死身の人
ハーロックは過去にはガイア・フリートの軍人だったが、ガイア・サンクションの方針に疑問を感じ反旗を翻し、ダークマターで地球を壊滅させてしまった当事者で、その過去を、宇宙のはじめ(おそらくビッグバン)からやり直すべく、次元振動弾を宇宙に点在する「時の結び目」に設置して起動させようと行動している。要するに、過去に犯した自分の過ちを帳消しにすべく、宇宙を消してはじめからやり直そうとしているのである。ちなみに、本人もダークマターで呪われたために不死身の体となっている。
ここで、思い出してみよう。アニメ「宇宙海賊キャプテンハーロック」の主題歌を。
宇宙の海は 俺の海
俺の 果てしない 憧れさ
地球の歌は 俺の歌
俺の捨てきれぬ ふるさとさ
友よ 明日のない 星と知っても
やはり守って 戦うのだ
命を捨てて 俺は生きる
命を捨てて 俺は生きる
この歌詞は、ハーロック(とその友トチロー)の生き様そのものを表現していると思うが、その一言なりとも本作のハーロックには当てはまるところがない。それならば、一体この人物の何をもって、キャプテンハーロックだと言い得るのだろうか?
2:憧れの船でなくなった「アルカディア号」
そうして出来上がった作品そのものも、既存作品の場面のつぎはぎのような感じである。ガイア・フリートの戦いで出てくる歩兵がスターウォーズのストームトルーパーそっくりだったりすると、見ていて気恥ずかしくなる。イソラの制服がガンダムUCに出てくる制服に酷似していたり、妻ナミのキャラクターデザインが同じくガンダムUCのミネバそっくりだったりするのも、偶然ではあるまい。
そもそもストーリーの中心にいるのは、イソラ、ヤマ、ナミの3人で、ハーロックとアルカディア号はこの家族の陳腐な愛憎劇のための飾りのようになっている。それならなおさらのこと、福井晴敏が一番描きたかったこの3人の物語を、その世界で、ハーロック抜きで描けばよかったのにと思う。要するにハーロックは客寄せパンダに過ぎないのだ。
そのように原作とはかけ離れた設定がなされた本作は、それゆえに矛盾も多い。そもそも不死身の男と知っていながら(そのハーロックの過去をヤマに作中で語ったのはイソラである)、なぜ彼の暗殺を命じるのか。実際不死身なのであれば、なぜハーロックはそれを見せつけて白兵戦で圧倒的強さを見せつけず、障害者であるイソラを背後から撃つなど卑怯としか言いようのない戦いをするのか。ハーロックは、物語の中心にいないだけでなく、その姿は自由とも、憧れとも程遠い。
原作のアルカディア号は、エンディング曲の歌詞でこのように表現されていいる。
君が気に入ったなら、この船に乗れ
いつかなくした夢が ここにだけ生きてる
どこへ行ったのか かわいい野の花は
どこへ行ったのか やさしい魂は
君が生きるためになら この船に乗れ
いつかなくした夢が ここにだけ生きてる
このように、アルカディア号は地球の社会で居場所をなくした者たちが「自由」の旗の下に集まる船だった。切れ者でありながら、自分の趣味であるプラモデル作りを常に最優先するヤッタランの姿はその象徴で、彼らはハーロックに命令されたり、強要されたり、否定されたりすることは決してなく、最大限その自由意志を尊重されていた。しかし本作ではそんな光景は見られない。この船に乗ることを希望したものは「テスト」を受けさせられ、気に入った答えができなければ船から真っ逆さまに落とされてしまう。気に入った者しか乗れない船になってしまったのである。
その船で、地球を暗黒の星にしてしまったハーロックは、すべてを「無」にしてやり直すべく、つまり自分の過去の過ちをなかったことにするために戦っている。そんな自分勝手な人物に憧れたりついていくのも不思議だが、最終的に暗黒と化した地球は再生可能とわかり、ダークマターの呪いを解かれたハーロックはともに戦ったヤマにアイパッチを手渡して不死身の体から解き放たれる。はっきりとは説明されないまま終わるが、つまりヤマがハーロックを襲名した、ということになるのだろう。宇宙海賊の領袖が世襲制とは知らなかったが、はじめから終わりまで、だれにも共感できないまま物語は進んでいくので、そうであってもなんの感慨もわかないのであった。
3:なぜ福井晴敏は原作を改変してしまうのか?
このような物語の骨格がはっきりせず、中身のない作品を見た後では、結果的にこういうことを考えざるをえなくなる。なぜ福井晴敏という人は、こういう改変をよしとして、こういう結末を導き出してしまうのか、と。
結局のところ、ここで彼が描いたのは、ハーロックがいた世界を破壊し、ハーロックというキャラクターをオリジナルキャラであるヤマに引き継がせるという物語であって、それ以外には説明のしようのないストーリーである。そしてそれは、福井晴敏という人が取り組んできたこと、すなわち「ヤマト」や「ガンダム」など数十年を経て愛されてきた名作コンテンツを、リメイク、続編製作という名の下にその作品の根幹をなす世界観を破壊し、自分の表現したい何かのために作り直してしまうという悪行そのものを投影しているとしか思えない。
それを、ヤマトやガンダムのファンはわかっているので、できればもう関わらないでほしいと、「マクロスに福井先生を引き取ってもらいたい」などという言葉も出るほどになっているし、実際、福井氏が関わった作品はどれも大ヒットには程遠い成果しか残していないが、それでもこうして、いつまでも製作に関わり続けていることが不思議でならない。もはやこれは福井氏の責任ではなく、彼の作る作品の真価をまったく見抜くことのできない製作会社や、太鼓持ちになりさがって正当な
評論のできないアニメ評論家の責任大であろう。
性懲りもなく、今年秋には「宇宙戦艦ヤマト2202」の続編として「ヤマト2205新たなる旅立ち」が劇場公開されるという。これ以上駄作の山を築いて、彼らはエベレストにでも登頂しようというのだろうか。
評点 ★ |