MUDDY WALKERS 

帰ってきたヒトラー Er ist wieder da

帰ってきたヒトラー 2015年 ドイツ 116分

監督デヴィッド・ヴェンド
脚本デヴィッド・ヴェンド
原作ティムール・ヴェルメシュ
「帰ってきたヒトラー」

出演
オリヴァー・マスッチ
フランツィシカ・ウルフ
ガッチャ・リーマン
ファビアン・ブッシュ
クリストフ・マリア・ヘルブスト ほか

スト−リ−

 第二次世界大戦末期の1945年から2014年にタイムスリップしてきたアドルフ・ヒトラー(オリヴァー・マスッチ)は街中の街路樹の茂みの中で目を覚ます。通りにあったキオスクの新聞で今が2014年だと知ったヒトラーは、キオスクの主人に助けられ新聞を読みあさりながら一夜を明かす。ちょうどその通りで「子どもの貧困」をテーマに撮影していたテレビディレクターのザヴァツキ(ファビアン・ブッシュ)は、テレビ局トップの人事異動の余波でリストラされてしまう。いいネタはないかと探していたときヒトラーと出会い、彼をモノマネ芸人だと思い込んで一緒に自主映像を作ることを持ちかける。そしてヒトラーとともにドイツ中を歩き回り、人々の反応を映像におさめ、YouTubeにアップする。その動画が大人気となり、ついにヒトラーは人気トーク番組「クラス・アルター」に出演することになるが・・・。

レビュー

 現代に甦ったヒトラーが、モノマネ芸人として大ブレイク。やがて再び、大衆の心を捉え始める・・・。
 このご時世にそんなキャッチコピーの予告編を見たら、これは観ないわけにはいかないだろう。しかも制作は本家本元、ヒトラーを生んだドイツである。相当の問題作に違いない。あと一つ、帰ってきたはいいが、その後どうなるのか? 穏便に、また元の時代に戻って終り、とはならないと思うが・・・。というわけで映画館に足を運んだ。その期待を裏切らず、そして、ズドンとこちらに球を投げつけて終わるラスト。今だからこそできた、そして受け止められた衝撃作だった。

 ストーリーが始まる前にちょっとした導入があって、マナー講師からヒトラーが礼儀作法を学ぶヒトコマがある。ナチス式敬礼を望むヒトラーだが、それはダメです、というやり取りにクスリとしたら、本編スタート。1945年から2014年に、唐突にヒトラーが現れ、目を覚ました彼の独白から始まるところにまず驚く。そこで、観客の視点がヒトラー目線になる仕掛けだ。起き上がって通りを歩いても、誰も彼に目もくれず、経緯も払わず、敬礼もしない。道を聞いても誰も答えず、乳母車の母親からは催涙スプレーを浴びせられるしまつ。なぜそんなに邪険に扱われるのか、彼はキオスクの新聞を読みあさることで理解する。
 そんなヒトラーが「降ってきた」街路樹のそばで、たまたま撮影をしていたテレビディレクターのサヴァツキ。そのときはヒトラーに気付くことなく、撮影していた子どもたちの背後に小さく、起き上がるヒトラーの映像が映っていた(これが、後できいてくる)。子どもの貧困をテーマにしたい、とテレビ局の上層部に訴える彼はリストラされてしまうが、街角のキオスクで出会ったヒトラーを「そっくりさん芸人」と思い込み、彼と組んで映像作品を制作することを思い立つ。

 この作品の面白いところは、こういう分かりやすい作劇部分から、話が次第に実録のドキュメンタリータッチに移っていき、フィクションとノンフィクションの境目があいまいになっていくところだ。ザヴァツキはヒトラーとともにドイツ各地をドライブし、人々がヒトラーを見た反応を映像でとらえ、また彼らがヒトラーに対して打ち明ける、現状への不満を録画する。その様子は、あらかじめシナリオ化された言葉、演技とは思えず、ヒトラーのような人が目の間に現れたときの人々の反応(それは笑いであり、感激であり、ときに親しみであったりする!)と、あるいはヒトラーだからこそ言えるのかもしれないむき出しの本音に笑いながら戦慄させられるのだ。

 テレビの仕事に復帰したいサヴァツキは、YouTubeで人気者になったヒトラーを副社長のベリーニに売り込む。ゼンゼンブリンクを差し置いて抜擢された彼女は社運をかけて彼らを採用。ついにヒトラーは人気トーク番組「クラス・アルター」に出演することになる。ここで彼は、得意とする長い沈黙の間合いで人々を惹き付け、いかにテレビが堕落しているか、そしてそんなテレビを見ているドイツが奈落の底へ落ちて行くかを力説。大喝采を浴びるのだった。

 もう一つ、この作品の面白いところがここにある。悪魔的なイメージのあるヒトラーだが、映画の彼はそうは見えない。ザヴァツキによく付き合い、金が尽きれば通りで似顔絵を描いて稼ぎ(ヒトラーが画家志望だったのはよく知られている)、まちの人々と一緒にスマホ写真に写り、今のドイツで一番まともなのは「緑の党」だと答える。テレビで正論を語り、ナチスを標榜する極右政党の党首を論破する。ヒトラーに激似だけれど彼は安全な人、というふうに見えてしまう。逆に言うと、映像作品に登場するヒトラーがあまりにもわかりやすい極悪人、悪魔的な人物として描かれているために、それがもはや記号となって、本物が分からなくなっている、ということではないか。悪魔は、悪魔の姿をしていない。悪魔は羊の皮をかぶってやってくるのだ。彼が本物だ、と誰も気づこうとしないまま、優しく耳を傾けてくれる彼、言いたいことをズバリと言ってくれる彼に心引かれゆく様には、何かいい知れない恐ろしさを感じた。

 ザヴァツキ・ヒトラー組とベリーニは、ゼンゼンブリンクの陰謀で失脚の憂き目を見るが、テレビ出演ができなくなった間にヒトラーは「2冊目の本」を書き、サヴァツキがそれを映画化する。しかしその中で、サヴァツキがつきあうようになった秘書のクレマイヤーの祖母がヒトラーと会ったときの反応を見て、彼が芸人ではなく本物ではないかと思い始める。そこに救いを見る気がしたが、最後はその予想を見事に裏切った。
 ヒトラー本の映画化で大成功を収めたベリーニは勝ち誇ったように言う。「歴史教育に、子どもたちも飽き飽きしているわ」。その言葉はそのまま、私たちに突 きつけられているようだった。帰ってきたヒトラーを通して、現代の私たちの世界の置かれた危機的状況、そして実は盤石だと思っていた土台がとても脆弱なも のなのではないか、と考えさせられる。何よりも、ヒトラーが変わらないのと同じくらい、大衆の置かれた状況も変わっていないことへの驚きが大きかった。戦 後70年、めぐりめぐって私たちは再び同じ光景を見ているのではないか?

評点 ★★★★★ 

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