MUDDY WALKERS 

大統領の執事の涙 LEE DANIEL’S THE BUTLER 

butler 2013年 アメリカ 132分

監督リー・ダニエルズ
脚本ダニー・ストロング
原作ウィル・ハイグッド「A Butler Well Served by This Election」

出演
フォレスト・ウィテカー
オプラ・ウィンブリー
デヴィッド・オイェロウォ
イライジャ・ケリー
クラレンス・ウィリアムズ三世
キューバ・グッディング・Jr
レニー・クラヴィッツ
アラン・リックマン
ジェーン・フォンダ

スト−リ−

 アメリカ南部の綿花農園で働くセシルは幼いながら父とともに綿花畑で働いていた。ある日、母(マライア・キャリー)が農園主の息子に連れられて小屋に入っていくのを見る。出てきた母は荒れ狂い泣いていた。暴行されたのだ。このことがもとで父は農場主に殺され、セシルは農園を脱出して放浪し、やがてメイナード(クラレンス・ウィリアムズ三世)に拾われ、ホテルのボーイとして働き始める。そこで教えられたのは「見ざる、聞かざる、で白人に給仕しろ」ということだった。その言葉に忠実に、勤勉に働いたセシル(フォレスト・ウィテカー)は、ある人物の目に留まりスカウトされる。新しい職場はホワイトハウス。彼はそこで大統領の執事として、アイゼンハワーからレーガンまで、7人の大統領に仕えることになる。

レビュー

 この邦題、そして黒人ながら大統領の執事を務めた、というストーリー紹介を見れば、誰だって黒人のシンデレラ・ストーリー(主人公は男性だけど)なのかな、最後は泣ける、ヒューマンドラマなのかな、と思うだろう。私もそう思って、軽い気持ちでDVDをレンタルした。見始めてからも、途中まではそう思っていた。だけど、全然そんなレベルの作品ではなかったのだ。なぜ、この作品がアカデミー賞ではなかったのだろう。

 モデルとなったのは、7人の大統領に仕えた執事、ユージン・アレン。この人を紹介するワシントン・ポストの記事から着想を得たリー・ダニエルズ監督は、一人の黒人執事セシル・ゲインズの目を通して、アメリカの人種差別問題を静と動、受動的側面と能動的側面とから描きだしている。  母は白人の農場主にレイプされて廃人同様になり、父はそれに抗議して殺された、という主人公セシル。だか彼はそうした運命を受動的に受け止め、ホテルのボーイとして「空気のように」「見ざる聞かざる」を忠実に守って働き始める。ホテルで食事や歓談を楽しむ白人たちはというと、まさに黒人を「空気のように」扱う。必要なことだけ、忠実にやってくれて、あとは邪魔にならないようにしてくれればよい。何か意見を求められても、「私には分かりません」。政治、国際関係、社会の動き、そういったことが意味深に語られる会話には、何も興味を持つことなかれ、と。セシルはその教えを忠実に守り、白人に対して決して本心は見せず、従順で、職務に忠実であり続けた。

 その働きが目に留まり、執事の最高位ともいえるホワイトハウスの執事に抜擢されるのであるが、そこには、彼同様の黒人執事が大勢働いていた。時の大統領はアイゼンハワー。彼の任期は1953年から61年までだから、セシルがホワイトハウスに入ったのは1950年代ということになる。あれ?奴隷解放運動って、あったよね?とつい首をかしげてしまうほど、そこには人種差別が「当たり前」にある世界。「見ざる、言わざる」で「空気のように」そばにいて奉仕してくれる黒人は、人でありながら人として扱わないですむ、という意味において、ちょうど執事という職務に都合のよい存在だったのだろう。セシルはホワイトハウスで7人の大統領に仕え、それぞれの大統領の、ホワイトハウスの執務室や私室での私的な姿や内密、極秘の会話を耳にしながら、一切それに関心を示さず頭に入れない、という態度で任務をこなしていく。

 歴代の大統領として登場するのは、執務室で絵を描くアイゼンハワー(ロビン・ウィリアムズ)、持病のため何十種類もの薬を服用し、時にぶっ倒れていたケネディ(ジェームズ・マースデン)、ケネディの後釜的存在だったが公民権法に署名し人種差別撤廃に動いたジョンソン(リーヴ・シュレイバー)、ベトナム戦争からの完全撤退を実現するニクソン(ジョン・キューザック)、そしてナンシー夫人とともにホワイトハウスでの生活を謳歌するかに見えたレーガン(アラン・リックマンとジェーン・フォンダ、激似!)。ニクソンとレーガンの間にいたフォードとカーターは空気のような描かれ方で、その頃のアメリカは、良くも悪くも沈滞していたのだろうと思わされる。
 そうした大統領を取り巻く様々な会話をセシルは耳にし、そのことを通して私たちはアメリカ、そして世界の動きを知る。黒人と白人が同じ学校に行くことの是非、ということが問題になり、人種差別を撤廃するのだ!と息巻いているときでさえ、ホワイトハウスの中では、こうしてセシルのような割り当てられた「よい黒人」の役割に忠実な黒人が、存在やその働きを顧みられることなく働いている。激動する「外」の世界と、外を動かしながらまったく変わることのない「内」の対比。それが、この映画が沈黙の内に語りかける、一つの人種差別の有り様であった。

 しかし、本作はそれだけではなく、そんなセシルと対照的に、外の激動の中に生きて行く人物が描かれる。それが二人の息子、ルイスとチャーリーである。長男のルイスは黒人ながら大学へ進学することになり、私の誇りだ、という父の言葉に送られて家から巣立っていく。しかしキャンパスでの出会いは、彼を公民権運動の荒波へと駆り立てていった。長男ルイスは、ホワイトハウスの「檻」にいるセシルにとって、外とつながる窓のような存在である。その立場上、セシルは人種差別と戦うために過激な運動に走っていくルイスを決して認めようとはしなかった。ここに、黒人の中にある二つの立場があることを知る。従順に忠実にあることで社会の一員として認められようとするのか、そうした社会の今の枠組みに対して拳を上げて戦うのか。弟のチャーリーは前者の立場で、徴兵されてベトナム戦争の戦場へ行き、戦死する。一方兄は後者の立場で、フリーダム・ライダーズなど人種差別撤廃運動に参加し、何度となく逮捕され投獄される。

 そんな中、レーガン大統領からその働きぶりを認められて、晩餐会に執事ではなくゲストとして招待される。「なるほど、それで執事の涙なのか」という期待はここで大きく裏切られる。白人と同じ立場に立たされてはじめて、セシルは黒人に認められた枠の外に出たときの白人の視線と感情を知ることになるのだ。そのときから、セシルは長男ルイスが情熱を傾けてきた活動へ、目を向け始める。そして、諦めていた黒人執事の昇級と昇進、という要望を、もう一度白人上司に伝えようと決意する。

 邦題にある執事の「涙」は、思っていたような涙ではなかった。セシルは始めて長男ルイスの活動の場に出向く。父と子の和解、それは「従順」の殻に自らを押し込めて生きて来た父セシルが本当の意味で解放されたときだった。

 重い余韻はしかし、最後に感動を持って締めくくられる。第44代目の大統領の就任の日。引退して余生を過ごしていたセシルは、その晴れやかな場に招かれる。内部を知り尽くしたホワイトハウスの廊下の先で、執事を待っていたのは、もちろん、その姿が見えなくても皆その人を知っている。しかしこうして、父セシルと息子ルイスの歩んできた道を知ってはじめて、私は本当の意味で、その人が大統領になったことの意味がわかった。

 主人公セシルを演じるのはフォレスト・ウィテカー。若かりし日に「プラトーン」で黒人兵士を演じたのを見て以来だが、すごい役者になった。母親役にマライア・キャリー、ホワイトハウスの同僚にレニー・クラヴィッツと音楽界の大スターもキャスティングされている。きらびやかな世界に生きる彼らでさえも、差別の辛酸をなめてきた過去がきっとあるのだろう。

 映画としては、かなり場面が多岐にわたり少々詰め込みすぎな感は否めないが、しかし、これだけの内容を、ただのハートウォーミングな話に終わらせず、人種差別撤廃への道、という大きな流れの中にある、黒人の中の二つの立場の葛藤、というテーマを盛り込んで描ききってみせた、という力量には感嘆せざるを得ない。アメリカ映画は何がすごいって、やはりストーリーの中にテーマを描き込みながら、それをストーリー展開の中で語り切る、という作品づくりが徹底されているところがすごい。構成力と脚本の素晴らしさにおいて、日本映画は足下にも及ばないだろう。邦題は「大統領の執事の涙」だが、せめて「大統領の執事」で留めておけなかったのだろうか。

評点 ★★★★★

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