ブログ評論集

クルマの話(2007年末)
※作成日の異なるブログ集成文のため、内容は個々独立・重複している場合があります。


第5章 レクサス参上

目次
1.開発者達の運命・・・レクサス、そしてプリメーラ
2.ヨーロッパ各社の反応(レクサスとアウディ)
3.生産システム・・・カンバン方式とアウディ方式
4.レクサス快進撃
5.ピエヒの秘策・・・アウディ”A”プロジェクト
6.覇者の奢り・・・トヨタの油断

7.レクサス vs. アウディ”A”コンセプト
8.ダイムラーの迷走・・・暗黒のクライスラー合併劇



1.開発者達の運命・・・レクサス、そしてプリメーラ

 筆者は最初の方でアウディのピエヒ博士を取り上げ、70年代からの彼の歩みを書いていたけれども、これはレクサスへの伏線であった。筆者はこの2つのクルマには共通点があるという筆致で文章を進めてきたけれども、現時点でこのことに触れた文章は皆無であるし、今は隠棲中のレクサスの開発者鈴木氏が本を書かない限り、今後も出てくるとは思えない。ピエヒ博士が長い間新車開発の第一線に携わり、上り坂のエンジニア人生を辿っていたことを考えると、日本の傑出した自動車エンジニアのその後は概して不幸である。

 レクサスと同じ頃、日産自動車では津田靖久博士が『プリメーラ』の開発に携わっていた。彼は日産がノックダウン生産したVW車『サンタナ』の日本側主管だった。『プリメーラ』はマルチリンクサスペンションを装備していたが、その完成度は同時代の他の日本車の同名のサスペンションに比べればはるかに高いもので、販売台数は日本よりヨーロッパの方が多いほどであったが、その後の彼には窓際族の運命が待っていた。『プリメーラ』は不振車であった『サンタナ』の詰め腹を切らせるために会社が彼を任命したものであり、成功すればお払い箱であった。

 人材に対する処遇の異様な冷酷さはクルマに限らず日本の会社の特色であるが、トヨタでもピエヒのように革新を積み重ねていくことはレクサス開発者の鈴木氏には許されなかった。無情にもレクサスについて書かれた本の中には、レクサスをより優れた自動車にしようと努力する彼の姿は「開発車に対する異常なまでの執着」、「人を人とも思わない独善的な態度」と評したものがある。開発者としての彼にはそれを行う正当な権利があったはずなのだが、会社は彼を支持せず、彼もまたレクサスの成功から間もなく、会社を去らねばならなかった。

 1999年に引退したダイムラーのデザイン部長ブルーノ・サッコ氏は201型を含むほとんどのデザインに携わった。ピエヒよりも年長で、外注も含めれば40年以上メルセデスのデザインを手がけた彼の最終作はメルセデスSL(オープンカー)であるが、彼は定年を延長し、66歳までデザインの第一線にあった。彼の会社のホームページは特に一頁を設けて彼の業績を讃えている。この差は成功したとはいえ、その後の日本メーカーの将来を暗示するものでもあったはずである。



2.ヨーロッパ各社の反応(レクサスとアウディ)

 レクサスが出現したとき、クルマを見たダイムラー社幹部の反応は、「驚いた」ではなく、「ついに来るべきものが来た」ではなかっただろうか。その後の同社を見るにつけ、それが正解だっただように思われる。多くの自動車メーカーの例に漏れず、同社も他社で新モデルが出ればそれを買い付け、テストしてその動向を探っていた。スズキの軽自動車は彼らの昼食後のジョークの種であった。

 「鉄板を接着剤で貼るなんて信じられないよ!」

 記者会見では礼儀正しく東洋の会社の進んだ生産技術を褒め称えるという感じであったが(何度も引き合いに出したので筆者も覚えている)、内心では軽蔑していた。彼らから見てこれらの自動車は軽すぎ、燃費は良いものの、万が一の際に搭乗者の人命を守れるような機械だとは思えなかった。自動車の安全性については彼らは人一倍の考慮を払っていた。「ドイツの戦士はいかなる時でも生還の機会を与えられなければならない」というアドルフ・ヒトラーの格言もある。特攻作戦を拒否したヒトラーはスズキ自動車社長よりは人道的だったと考えたいところである。

 入手した東洋の自動車に時として見られる人命軽視の思想は、より進んだ自動車を作っているという自負のある彼らには後進性と映っていた。ブレーキの設計が不十分なため、これらのクルマは後輪が簡単にロックしてスピンしたが、クルマ会社から袖の下をもらっている日本の警察(当時、日本と中国を彼らが区別していたかどうかは疑わしい)は「ハンドル操作の誤り」で片付けてしまうのだ。本当はクルマのせいなのだ。多くの日本車の後輪に未だにドラム・ブレーキが使われているのを見た彼らの反応は「問題外」であった。

 もっとも中国で彼らの同胞(フォルクスワーゲン)が中国人民向けに作っていたクルマは既にクラッシクカーと言える古いアウディ80のVW兄弟車『サンタナ』の後ろ半分を切り落としてハッチバックにした『GOL』(日本では輸入されていない)など、かなりものすごいものだったのだが。これについては、フォルクスワーゲンは大衆車で、有事にはキューベルワーゲンに設計変更できるようなクルマなのだから多少いいかげんなクルマがあっても問題は無いと思っていたようだ。まあ、見なかったことにすれば良いだけのことだ。メキシコのVWビートルは、、何かの間違いだろう、、走破性が良いことは確かだ。少なくとも先進国民に提供しているクルマにそんなにひどいのは無いはずだ。それにイギリス人だって『あれ』をまだ作っている。あんなトラバコみたいなパイクカー(ミニ)がなぜ売れるのか理解できないのだが、買っているのは日本人だそうだ。これは彼らのエンジニアもひどいものだが、民度も低いのだから仕方がない。住んでいるのもウサギ小屋だ。

 むしろ、彼らがレクサスを見て、チラリと思い出したのはアウディでは無かっただろうか。創業以来、ダイムラーやBMWのクルマは手作業を基本としていた。それはドイツのマイスター制度に下支えされており、ロボットは導入されているが、基本的には熟練職人の手作業であった。車体のアーク溶接は彼ら以外どこもやっていなかったし、これはトルコ人の期間労働者をつかまえてできるようなものでもなかった。

 エンジンも同様で、彼らのクルマのそれはエンジン職人が一台一台組み立てて調整してチェックしていた。賢明な自動車職人の一人は新しいボルトの締結法を提案した。従来の角度法を発展させ、塑性域に至るまで締め付ければ、締め付け力のバラつきは従来よりも半分も減り、しかも、締結は強固になる。この提案はすぐに理論化され、ダイムラー車の全車に採用された。「コンカレント・エンジニアリング」という言葉があるが、階層社会でありつつも、学術に優れると同時に、職工を尊重する文化を持っていた彼らは元々コンカレントだった。

 そういうわけで、彼らの自動車は納車までにも時間がかかった。人気車種だと数年待つのが当たり前で、その代わり、色や内装は自由に選ぶことができた。このテーラー・メイドがヨーロッパ車の基本で、これと高品質で高価格を正当化できた。なぜ日本車がボディカラーを白と選んだだけで内装は黒と自動的に決まってしまうのか。なぜユーザーが2,000ccのツインカムエンジンを選んだというだけの理由で内装がサイケデリックな黒と黄色のダンダラ模様になり、付けたくもない派手なスポイラーが勝手に付いて来るのか、彼らには理解できなかったし、こういうことは彼らには全て冗談に見えた。

 しかし、フォルクスワーゲンのハレ54は失笑物だったが、その子会社アウディのクルマは彼らをして克目させるに十分な内容をもっていた。これは大量生産車でありながらその工作はダイムラー並みに緻密であり、また細部までダイムラーより行き届いた設計になっていた。職工の手間を増やし、信頼性を下げることから、ダイムラーは部品点数の多い設計を嫌うが、このピエヒの新型は全く恐れていないようだった。総亜鉛メッキボディの耐久性はどうもダイムラー車を上回るように見えたし、他の部品も長期の使用に十分耐えるものに見えた。つまり、これはダイムラーと同格の自動車である。そして、日本車と違っていたところは、これがダイムラーと同じテーラーメイドの自動車だったということだった。そして、日本車では例外的に、同様の生産システムを採用したと広言していたレクサスは、アウディよりもさらに洗練された乗用車だった。



3.生産システム・・・カンバン方式とアウディ方式

 ヘンリー・フォードの作った流れ作業のシステムは確かに近代の自動車生産の基礎になったけれども、同時にいくつかの問題点も内包していた。流れ作業による作業は単調であり、これはラインの労働者に大きな不満を抱え込んだし、もっと大きな問題として流れを均一に保つためには常にある程度の在庫を確保しておかなければならないことから、いわゆる「作りすぎのムダ」、「どんぶり勘定」といった非効率性も生じていた。ヘンリー時代のフォード社は下請けへの支払額を伝票の重さで決めていたという逸話もある。

 トヨタの「かんばん方式」は流れ作業を基礎としつつも在庫の管理を徹底することでムダをなくすという仕組みである。「後工程は必要な数しか受け取らない」、作り過ぎはムダなのであり、後工程の最末端は顧客なのだから結果として部品は必要な数しか作られず、配送もされなくなり在庫も無くなる。同時に加工工程で近接した工程でまとめられるものはひとまとめにし、生産工程に流れを作り出す。旋盤工は同時にフライス工でもあり、場合によっては溶接工にもなる仕組みは小ロットの生産にも有利であり、また先天的に多品種の生産に対応できることから生産の平準化の点でも有利であった。ライン工にはラインを止める権限が与えられており、異常が生じた場合にはラインを停止させて再発防止の徹底的な対策を取る。

 これをフォードの方式と比較すると、まず在庫の管理で違いがあるし、単能工同士のやり取りなので加工部品の経路も長くなる。また、不良品に対してはサブアッセンブリーがあり、そこで不良品自体の修正を行うが異常対策は先送りにされる。職工がラインを止めることは許されていない。

 生産性の決定はフォード方式の場合は生産額/職工数が即座に生産性となると思うが、トヨタの場合は生産額×平準化(係数)/職工数といった感じになると思うので、この方式を取ったからといって一人当たり生産性が上がるというものではない。むしろ生産計画によっては下がる可能性さえあるだろう。また、トヨタも生産計画は中央で決められるため、ある意味彼らの働きぶり(生産性)は生産担当者のサジ加減一つという所があり、当然のことながらやや過重なノルマが課せられることになり、そのノルマ達成についてはライン職工の自己責任ということになるだろう。

 検査については双方とも抜き取り検査である。統計的に決められた指標があり、ライン脇で抜き取って品質を判定する。

 アウディの場合はトヨタ生産方式の発展型と見ることができるが、より進んだマン・マシン協働の生産システムである。「部品に情報を付ける」というトヨタ生産方式は継承しており、これはコンピュータで管理される。よく似ているので違いを見出すのは難しいが、どうもボディの組み立てと艤装で二分できるようである。艤装以降はトヨタというよりはむしろフォードに近い感じである。補修用のサブラインもある。これは流れ作業で分掌して組み立てられるが、これはボディ組み立ての工程が同時に生産調整のバッファになっていることによる。トヨタの場合は鉄板からプレス板を打ち出す時点で生産計画の平準化はなされているが(そのため、段取り時間の短縮などが行われる。プレス工程も一貫した流れの中にあるため。)、アウディの場合は艤装までに行えば良いようである。部品の調達も艤装の時点で発注される仕組みである。

 そのため、アウディではボディ組み立て(大部分が自動化されている)のチームに時間による制約は無く、組み立てて品質をチェックし、完成した時点で職工の判断で塗装工程に送られる。エンジン、ボディなど重要な部品にはチーム制が採用されており、職工はかなり広範な権限を与えられている。これは組み立てのみならず、部品の補修や機械のメンテナンス、そして品質テストまでを行う。1チームが1基のエンジンの組み立てに要する時間は最も複雑なものでおよそ半日である。この部分は機械化されたマイスター方式という感じである。かなり大きなコンポーネントを組み立てるため、流れ作業で分掌した場合に必要な、次工程への品質保証は必要なく、また、こういう方式を取ることから、検査する場合も全数検査が基本である(部品納入時点では抜き取り検査)。

 総じてみると後発だけに良いとこ取りというか、上手くまとめたなという感じなのだが、実際の工場を見てみればアウディの場合はやはりドイツ流マイスターシップを生かす方向で、トヨタは似ているとはいえ、細かい部分はだいぶ違うはずである。

 結果を見てみると、こと北米では双方とも大差ないという感じで、ユーザーの選択肢はレクサスもアウディも同程度である。これがヨーロッパになるとアウディの選択肢は圧倒的なのだが(色が無い場合は下請けクワトロ社で好きな色を指定できるというオマケ付き)、船便という制約があり、選択肢が少なくなる分、アウディは北米では価格を本国より2割ほど下げている。



4.レクサス快進撃

 90年代前半の3年間は、まあ無敵であった。レクサスは大きさこそ従来の高級車よりやや小振りであったが居住性は同等で、最高時速250キロの性能に至っては太刀打ちできるクルマはほとんど無く、おまけに燃費まで上回っていたのだった。そのスタイルは上品で、どこかしら奥ゆかしさがあり、しかも日本車の長所として信頼性も高かった。レクサスは音もなく加速し、乗客にそれと感じさせることなく、あっという間に時速100マイル(160キロ)に到達していた。ここで当時が絶頂のレクサス開発者、鈴木一郎主査は得意げに「この速度でモーツァルトが聞けます」とCDスイッチをオンにするのだった。当時の日本の母親たちの間では、このザルツブルグの不遇な作曲家の曲が知能を高め、胎児の発育を促すと信じられていた。

 ダイムラーはミディアムクラスに4リットル、BMWも5シリーズにV8を載せて対抗したが、もちろん、こんな泥縄式の抵抗でレクサスの躍進を食いとめることができるはずも無かった。かつてVWがそうなったのと同様、これら古い高級車も大西洋の向こう側に叩き出されてしまうのだろうか、クルマを見た感じでは、どうもそうなりそうだった。

 ストレート6(直列6気筒)が完全バランスで最上と主張してたジャガーまで、レクサスに靡いてV8を積んだ狼狽ぶりはそれは見物だったが、レクサスの快進撃はかつて零戦を先頭に地球の3分の1を制圧した日本軍のそれを思わせた。全く彼らは相手を見くびっていたのだった。同じ頃のニューヨークでは日本人投資家が名画やビルを買い漁っており、日本企業に買われたハリウッドの映画会社では裏切り者のアメリカ人俳優たちが映画やコマーシャルでレクサスの名を連呼していた。このまま行くと21世紀はおろか、22世紀も23世紀も日本の時代になりそうだった。

 アウディは悪あがきせず、ただ情勢を静観しているように見えた。販売台数は低下の一途を辿り、一時期は1万台近くまで低迷したが、同社の社長ピエヒには考えがあるようだった。

 2006年の現在で見てみると、アウディの北米販売台数は8万台、レクサスは30万台である。ただし、ウィンダムとトラックを除いた、ある程度まともな乗用車の販売台数は6万台で、旗艦モデル(A6、A8)の合算数はほぼ互角になっている。アウディは乗用車専業メーカーで、これはまあ善戦と言えるが、結果論であり、元来独占市場だった輸入高級車メーカーで欧州勢がレクサスの前に後退を余儀なくされたことは間違いない。



5.ピエヒの秘策・・・アウディ”A”プロジェクト

 アウディ社は巨大企業VWの高級車部門でしかなく、レクサスを作ったトヨタよりもずっとずっと小さな会社であるが、とりあえず社長ピエヒ博士の立場から北米でのレクサスの躍進を見てみるなら、それほど慌てふためく必要は無かっただろうという結論に落ち着く。たぶん、ドイツの諸メーカーの首脳陣の中でレクサスの台頭に際し、最も冷静だったのは彼だっただろう。アウディは旗艦モデルのV8を対レクサス用に手直しさえしなかった。このツーリングカーのベース車両としてしか使い道の無い古いクルマは未だにカタログ上ではアウディのフラッグシップなのだった。エンジニアはムダなことには労力を割かない。

 当時の時点では、ドイツのメーカー首脳陣の中では日本車への造詣が深かった彼は、これら会社の中では唯一、レクサスに対抗しうる生産システムを手にしていた。ダイムラーはまだ模索段階だった。そこから見ると、確かにレクサスの旗艦モデルLSは素晴らしい乗用車だが、実際のレクサスの販売の様子を見れば、このLSはむしろ例外で、販売の主力はウィンダム(ES-250)とランドクルーザーだった(今でもそうである)。LSとウィンダム(写真参照)とでは構造も乗り味もまるで異なる乗用車で、これをレクサスと言うのは詐欺に近かった。ランドクルーザーに至っては燃費の悪い旧式エンジンの頑丈なオフローダーという以外、何の取り得も無い乗用車だった。彼はここに着目した。

 ブランド間の各モデルに統一性が無いこと、これがレクサスの弱点であった。アウディ社の数十倍の巨大企業トヨタにしてそうなのだ、が、彼がアイディアを出し、洗練された彼の工場を正しく用いれば、上は大型セダンから下はハッチバックまでのアウディ車に統一された個性とアイデンティティを与えることは可能であるはずだ。対抗しがたい古いモデル(V8・直進性だけが取り柄の整備性の悪い、絶望的に不細工なアウディの当時の旗艦モデル)を化粧直しするよりは、統一されたブランド・コンセプトをこそ練るべきである。それが彼の考えた「A」モデルであった。反攻の期日は現在の100型、80型のモデルイヤーが切れる95年頃とセッティングされた。それまでにレクサスに対抗しうる乗用車を用意しなければならない。

 これは結構面白い。93年にピエヒがVW社長に引き抜かれなければ、彼はこの計画でレクサスに対したはずである。彼の後の水で薄めたような「A」モデルでさえ、結果的にアウディは販売台数を倍増しえたのだから、彼が引き続き社長の座に留まっていたならば、あるいは結果はもっとエキサイティングに違ったものになっていたかもしれない。なお、醜いV8の後継モデル「アウディA8」はアルコア社から技術提供を受けたオールアルミボディの大型乗用車である。



6.覇者の奢り・・・トヨタの油断

 レクサスの成功の要因は様々だが、筆者はこのクルマが購買層に最もアピールしたチャームポイントはそのサイズだと主張したい。4代目になるレクサスLSは今も良く売れている乗用車であるが、サイズは89年の初代とほとんど変わっていないのだと書いたら驚くだろうか。慎重なことに、企画者はこのクルマのサイズが5メートルを超えないようにした(4.995メートル)。これは鶏肉100グラム98円とか、オーブンレンジ19,800円と言うのと同じ原理である。今は越えているが、これは表記法がメートル法からインチ法に変わったためで、現在のレクサスの全長は198インチである。スーパーマーケットのPOPチラシの鉄則は今も生きている。いかに微妙なサイズかは上図(省略)を見てもらえれば分かるだろう。

 まさに絶妙のサイズである。ここまで細部に渡って考え抜かれた企画を持って行ったなら、北米で成功して当たり前である。サイパンでの玉砕や太平洋でのグラマンの猛襲を覚えている戦後トヨタの経営者たちはアメリカという国の恐ろしさを肌身を通して知っていた。

 が、その後の彼らは大日本帝国同様、少しばかり油断しすぎた。レクサスの収益構造は変わっていないし、レクサスについての著書がある本職哲学者の山本先生(信州大学)は書いていないが、ことアメリカではトラックやウィンダムの無いレクサスはレクサスではないのである。近年、レクサスは日本に上陸したが、アメリカでの上澄みだけ日本に持ってきても失敗するのは当たり前で、仮に売れても儲かる構造には決してできないだろう。成功体験が咀嚼されていないのである。

 89年の大成功から数年を経ずして、早くもレクサスのコンセプトは骨抜きが始まっていた。「レクサス車」専用だったはずの生産ラインは、知らぬ間にRAV4やハイラックスサーフなど別の車が一緒に流れるようになっていた。別にレクサスが売れなくなったわけでは無い。そして、レクサス店の「主力車」ウィンダムはアメリカ政府との約定でトヨタがケンタッキー州に建てた工場で作られているアメリカ車だった。要するに鈴木氏が力説したテーラー・メイドの高級車を作るための冗長余地を多く残したラインは、トヨタ経営陣にしてみれば「職工を怠けさせるためのライン」だったのである。ちなみにトヨタ工場のトイレはガラス張りである。

 今に至るまで、レクサスはLSだけが傑出しており、他のクルマはかなりどうでも良い代物である(ウィンダムとか)。「レクサス」の生みの親で、成功から間もなくトヨタを追われた鈴木氏がもう少し在籍していれば、これは避けられたかも知れない。そのLSも2代目でかなり混流ラインに合わせた簡素化が進み、3代目はトヨタ製VIPカー(要するにヤクザや暴走族が乗るクルマ、”Option(雑誌)”などを見れば分かる)のような野暮なデザインの魅力のない下品なチューンドカーであった。確かにレクサスは北米に地歩を築いた。しかし、その後はレクサスのみならず、アウディやダイムラー、BMWも北米での販売台数を数倍に伸ばしたのである。



7.レクサス vs. アウディ”A”コンセプト

 米国市場ではアウディ(VWグループ)はそのビジネスの質において、あまり注目する者は少ないが、実はかなり健闘している。成長率はどちらも同程度で、レクサスは90年の6万台から、VWは93年の8万台からスタートし、双方ともおよそ5倍の成長を見せている。が、その質はかなり異なる。

 現在のレクサスの北米での販売台数は30万台、うち半分がトラックで、残りの半分も半分はウィンダムである。アメリカでのレクサスは、顧客が米国車ディーラーではまず望めない極上の歓待を受けた後、安いウィンダムを買って帰るというビジネスモデルが定着してしまった。旗艦モデルLSの販売台数は90年から現在まで2万台程度とあまり変わっていない。クラウンベースのGSやES(ウィンダム)をLSと同格の自動車と考えることはかなり無理がある。これらは日本では「木目調パネル(プラ製品)」を貼って売っているのだが(それしか選択できない)、これを木目パネルに張り替えたところで素性の悪さは一目瞭然である。それに5リットルエンジンのトラックなどは米国市場以外ではどこでも売れないのだ。

 一方、VW・Audiグループは43万台、ほとんどが乗用車でレクサスLSに比肩する旗艦モデルA8、A6、Phaetonの合算は同程度、高級オフローダーのAllroadやTouareg(もはやトラックとは呼びがたいクルマである)を含めればもっと多い。もちろんこれらの自動車にプラパネルなど使われていない。さらに地道な努力として専業販売店の数を増やし、掛売り(リース)を減らして即売比率を上げてキャッシュ・フローを向上させている。

 この競争の最中、高級車に引きずられたせいもあるが、クルマ全体の水準はどんどん向上していった。アウディの「A」コンセプトは、理念型(A10)の技術を全てのクルマにフィードバックするという思想で、VWの「クラスレス」は「プレミアム」と名を変え、ここで全ての乗用車が何らかの形で付加価値を持つことを求められるようになっていった。



8.ダイムラーの迷走・・・暗黒のクライスラー合併劇

 ダイムラー・クライスラー社の「スマート」は全長2メートル余りの小さな乗用車で、筆者も一週間借りて乗ったことがあるが、これは街中で使い勝手が良い上に、普通の軽自動車よりは実馬力もトラクションも大きいので、山坂道の多い長野県の山道をグイグイ登り、そんな使い方をしても燃費はリッター20キロを割らないスグレものの自動車である。さらにブースト装置があるので、軽と異なり、対面通行の多い磐越道などでも後ろから煽られずに済むことがある。荷物は2人分なら十分収まり、普通の道路なら意外と乗り心地も良いので(異論はある)、これで日本一周旅行も悪くない感じである。スイスのパイク時計メーカー、スウォッチ社と提携したダイムラーは、これを用いた都市における渋滞の緩和を提案していた。スウォッチらしいパイクなデザインに、カードキーで動かせる「スマート」は乗り捨て乗用車として都市内でバスに代わる市民の足となるのだ。しかし、これを作っていたのがスズキでもトヨタでもVWでもなく、あの「ダイムラー・ベンツ」だったというところに、1990年代の同社の苦悩の深さが伺える。

 1990年代のダイムラーはやや迷走していた。過去の成功作であった201型はダイムラーの予想以上の売れ行きを示したが、これは本来同社のクルマを買わない層にまで浸透した。しかし、201型は儲からなかった。これはほとんどSクラス(126型)と変わらないような工作を要する自動車で、単にSクラスの縮小模型を作っているに過ぎなかった。そこで202型Cクラスはその反省の上に設計されたが、VW同様ロボット化で躓き、202型は201型より2万ドルも安くしたのに顧客からは総スカンを喰ったのだった。

 GMやトヨタのように、そして新たに傘下に入ったクライスラーや三菱自動車のように、下位車種は可能な限り手を抜き(三菱などはドラムブレーキである)、ラインアップのどんぶり勘定で儲けるフルライン方式は、本質的に伝統工芸のメーカーである同社にはどこまでも反りの合わないものだった。「自動車業界の教授」を自認し、「最善か、無か」のコンセプトを掲げて輝いていた同社は1990年代は品質問題でスキャンダルとなったアメリカ製のVクラスや転倒問題のコンパクトAクラスなど多くの問題を抱え、さらに、クライスラーとの合併で同社が技術援助したオープンクーペ「クロスファイア」は全くの失敗作で、主として同社が魁となった、世界的な自動車市場の再編劇は、こと同社に関しては、早くも暗雲が立ちこめるものになっていた。




次ページに続く