ブログ評論集

クルマの話(2007年末)
※作成日の異なるブログ集成文のため、内容は個々独立・重複している場合があります。


第4章 プラザ合意とレクサスへの道
1.対米輸出の行き詰まり
2.高級車開発の必要性
3.アキュラ、インフィニティ、そしてレクサス
4.技術的制約・・・時代遅れのトヨタエンジン
5.YETの思想
6.新型UZエンジン
7.クルマの買い方の地域格差
8.強敵、新しいダイムラーの旗艦・・・W140型Sクラス
9.世界最高の乗用車・・・トヨタ・セルシオ
10.レクサス参上



1.対米輸出の行き詰まり

 日本は早くからアメリカに自動車を輸出していたが、一定の評価を得られるようになったのは1973年のオイルショック以降である。ガソリン価格の急騰により、それまではほとんど売れず、注目もされなかったちっぽけな自動車、日産・サニーが燃費性能の高さから再評価された。これは非常に軽量に作られており、燃費性能ではアメリカ車を含む全輸入車中ではナンバーワンであった。サニーは売れに売れた。そして、これが全ての始まりになった。

 なお、全日本車中で最初にアメリカの土を踏んだ日本車は1957年のトヨタ・クラウンである。が、1トンを超える重量にたかだか50馬力のエンジンではまともな走行性能が得られるはずも無く、最大時速100キロのこのクルマは早々に撤退に追い込まれた。当時これを見たアメリカ人たちはクラッシックカーと考えたが、トヨタは高級車のつもりで輸出したのだった。

 その後、日本車は石油ショックに対する対応に遅れたアメリカ勢の怠慢と、余りにも長い間ビートルにしがみついていたVW勢を駆逐した。日本車は北米に確固たる足場を築いたが、80年代には貿易摩擦の形で問題を生じるようになっていた。

 この日本の躍進については、敗戦国日本にはマーシャル・プランは無かったが、戦後構築された固定相場制であるブレトン・ウッズ体制と朝鮮戦争は同国に計り知れない恩恵をもたらしていた。朝鮮戦争はむしろ日本の経済からアメリカの影響を排除するのに役立ったという見方もできる。ここではマーシャル・プランのように援助額がそのままアメリカ製品や農産物の購入に繋がったのではなく、アメリカ人が日本人が作った工業製品を進んで買ってくれたからである。朝鮮戦争は同国の指導層に加工立国という進路の正当性を確信させた。アメリカ人に軍需物資を売って儲けた金の使途は事実上自由だったのだから。

 が、1ドル360円という、この為替相場は明らかにアメリカによる恩恵のシステムであった。当時言われたこととして、債務国に転落したアメリカを揶揄して日本人の貯蓄性向の高さを喧伝するものがあったが(ヒマな役人はバカなことを考えるものである)、これはこのような通貨の過小評価があってはあって当たり前の話であった。国産なら1個10円の石鹸が向こうでは200円出さなければ買えないとあれば、誰が輸入品などに金を払うだろうか。そして国内に滞留した円は貯蓄となり、最大のものは郵便貯金であり、これは産業政策を決定する通産省と資金運用部を持つ大蔵省の官僚の意のままに用いられた。

 これを見て、まだ助かったと思えるのは、当時の官僚には曲がりなりにも国家と国民に対する良心の持ち合わせがあったことだろう。現在のロシアのように援助額が不正に横流しされ、官僚のスイス銀行の個人口座に流れるということは無かった。彼らはこれが国民の金であることは分かっていた。そして、それは積極的に産業投資に用いられた。GHQと共に来日したアメリカ税理士(デトロイト銀行頭取)ドッジの置き土産で相続税が強化されていたこともある。

 しかし、戦後40年、ソビエトとの軍拡競争と復興を終えた日本やドイツの躍進は超大国アメリカをして恩恵のシステムの維持を不可能なものにしつつあった。既に鉄鋼産業ではUSスチールが製鉄所のいくつかを閉鎖するまでに追い込まれていた。カラーテレビは既に日本に製造の主力を移していた。見た目だけでない中身ではもっと侵食が進んでいた。基幹産業である自動車は金型の多くを日本に発注していたし、核弾頭ミサイルの回路には日本製のLSIが使われていた。そして、それは国内で深刻な不況を招いていた。



2.高級車開発の必要性

 85年のプラザ合意を待つまでも無く、自動車メーカーの首脳部は対米輸出に危機感を感じ始めていた。既にブレトン・ウッズ体制は過去のものであった。通産省の役人はお節介にも輸出自主規制についてメーカーにお伺いを立てたが、これは余計なお世話というものだった。彼らは国の助けをほとんど借りることなく巨大産業を育て上げて来たのだった。クルマの輸出というものは役人が考えるような水道の蛇口を閉めれば良いというものではなかった。輸出台数は既に横ばいになっていた。減少した年さえあり、為替レートに関係なく、日本車の市場には80年代初頭には既に陰りが見え始めていた(サニーからたった7年である)。

 何とかしなければならないことは確かだった。サニー以降はともかく、最初の輸出が始まって既に30年近くが経過していたが日本車がアメリカ人に買われた理由は別に性能が良いわけでもドイツ車のように耐久性に優れるからでもなかった。第一の理由はまず安かったからであり、次いで燃費を含む維持費が低廉であったからだった。これは父親が娘に最初に買ってやるクルマであり、また、国産車は中古車しか買えない貧乏白人や黒人が乗るクルマだった。それ以外は変わり者の学者とかであり、巨大な中産階級市場にはほとんど食い込めていなかった。

 技術的な先進性と作りの入念さで評価されていたドイツ車と異なり、日本車はアメリカではあくまでも「クルマのような何か」であり、「代用品」であった。80年代半ばを過ぎてもなお、彼らは日本車の原料は屑鉄で、まともな鉄ではないと信じたがっていたのである(当時既に日本は鉄鋼生産高でアメリカを追い越していたにも関わらず)。

 日本車の側にも責任はあった。日本に乗用車を生産しているメーカーは9社あったが90年代に至るまでほとんどのメーカーにはテストコースさえなく、その製造する自動車は技術的には凡庸で、戦後になって日本人技術者が自動車界にした貢献はといえば2次バランサーくらいしかなく、釣り目のデザインは「日本顔」と揶揄されるような愚昧なものだった。数が問題なのではなかった、問題なのは品質であった。

 品質の点で日本車の優位を知らしめる高級乗用車の計画はクラウンの惨敗から四半世紀後のトヨタで始まった。後にレクサスと呼ばれるそれは紆余曲折を得つつも、日本の会社には珍しい断固たる決意で進められ、1989年にその姿を現すことになる。



3.アキュラ、インフィニティ、そしてレクサス

 既に北米にはホンダがアキュラ・ブランドを立ち上げており、ローバーとの共同開発車レジェンドがデビューしていた。日産も高級カー・インフィニティの計画を進めていた。トヨタの場合は80年代初頭には既に開発がスタートし、基礎研究は進んでいたものの、その仕様とあってはやや総花的でやや錯乱的であった。同社は既に社用車や中小企業主向けの高級車クラウンを持っており、これは日本ではステータスカーであったが、これをそのまま持っていくことは論外であった。クラウンは日本向けに口直しされた小型アメリカ車にすぎず、できの悪いクルマでは無かったが、アメリカ製の大型車に太刀打ちできるようなものではなかった。キャデラックはクラウンより何倍も精緻に作られた高級な自動車である。ここでは絢爛豪華なアメ車的価値観からは離れ、別の価値観を提案して、GMでは作れないようなクルマを持って行かなければそもそも商売にさえならない。アキュラは賢明にも清潔なデザインと機能的なインテリアでその愚は避けていた。

 ここで力説されている高級乗用車についてコメントすると、アメリカ車にしろ日本車にしろドイツ車にしろ、ユーザーの大半は高級車ではなく、むしろ「大衆」グレードのクルマに乗っている(アメ車ではシボレーやオールズモビル、日本車ではカローラ、ドイツ車はVWゴルフ)のだし、ユーザーの大半にこういう自動車は興味が無い。別にそういうニーズが強かったわけではなく、ここではメーカーのために高級車は必要なのである。1台のキャデラックの販売でシボレー40台分の利幅が得られると聞いたらどうだろうか(ハルバースタムによる、詳しい数字は覚えていない、40台は大げさにしても10台分は確実にある)。利幅の薄い大衆車に依存していては会社の利益は景気に左右されてしまうが、高級乗用車はそれをカバーする財務上の緩衝装置である。この『フルライン』方式を最も徹底的にやっていたのがGMで、トヨタはその最も良質な弟子であった。

 いずれにしろ、円高の進行で大衆車の販売は減少傾向なのだから、彼ら自身の思想信条が清貧だろうと葉隠武士道だろうと、ここで引き続き北米に足場を保つには好むと好まざるとに関わらず高級車を開発しなければならなかった。自動車メーカーの首脳は魚肉ソーセージが大好きな社会民主主義者とは異なるし、もし、彼らがそんな人物なら、我々は今頃トラバントに乗っていなければならなかっただろう。



4.技術的制約・・・時代遅れのトヨタエンジン

 技術的にはどうかというと、多くの例に漏れず、トヨタの新型も大きな制約を持っていた。当時完成していたエンジンは3.5リットルのV8であり、こんなエンジンでは全長7メートル2トン6リットルのキャデラックのトップグレードにぶつけるのは無理であった。他にあったものはといえば、皇族専用車センチュリー用の4リットルで、これは30年も前の化石のようなエンジンで、さらに絶望的なスペックだった。技術的にもアメリカ車と四つに組んで勝負することには問題があった。

 性能不足のエンジンは直ちに4リットルに仕様変更されたが、最良のものでも「世界標準」より大幅に劣るエンジンは新型車の立ち位置をやや中途半端なものにした。実際、エンジンと用途さえ決まってしまえばクルマの仕様はおおよそ決まる。やや錯乱気味の仕様書には、対米仕様車にも関わらず、「最高時速250キロ」という世迷言のような文字が踊っていた(フリーウェイの最高速度は時速60マイル(約100キロ))。

 これはこのエンジンでは車重は最低でも2トン弱に抑えなければならず、空気抵抗係数は0.30以下を達成する必要があるという意味であった(ダイムラー126型は0.36)。それでいて高級車に相応しい居住性と装備も備えなければならない。さらに燃費規制であるガスガズラー税(都市部と郊外の平均でリッター6マイル(約10キロ)以下のクルマに掛けられる自動車税)をクリアすることという条件があった。仕様書を書いたトヨタの人間はどんなクルマをイメージしていたのだろうか?

 いろいろな本を読んでも、また、下のようなWeb記事を見ても「レクサスの顧客層」というのは今一歩分かりにくい。結果的に売れたので、「そういうブランドを目指したのだ」というのがトヨタの公式な説明であるが、本当のところは1980年代後半の時点では「こういうクルマしか作れなかった」というのが真相に近いだろう。

 いずれにせよ、レクサスは師表を落ち目のキャデラックではなくダイムラーに求めた。そしてこの選択が、前述した1970年代から80年代にかけてアウトバーンで戦われていたカルト的スピード競争がドイツの片田舎から離れ、その後10年以上、世界の全ての自動車メーカーを巻き込んだ自動車大戦争に発展した瞬間でもあった。



5.YETの思想

 さて、今の筆者の手元にはアウディ社の資料がある。かなり以前にとあるディーラーが倒産した際に倉庫にあったものを入手したもので、ちゃんと断ったので別に盗品ではない。「アウディ80、90エンジニアリングマニュアル」と題された100頁のマニュアルは発行年は不明なものの、対象が86年式80型であり、おそらく87~88年頃にドイツ語直訳で制作されたものと思われる。他車との比較や売り込み文句は皆無で、淡々とエンジニアリングについて記述しているこれは日本での販売には全く役に立たなかっただろうが、ボディの構造から理想的なハンドリングに至るまでいちいち定義づけしているこの資料は、作られたのが「レクサス以前」であることに価値がある。

 「従来の防音とは、重量のある吸音材を大量に使用することを意味しました。しかしこの方式は、最大の効率というアウディの目標の逆を行くものです。アウディ80/90シリーズではもっと進んだ方式を採用しています。まず騒音がどこで発生し、そしてそれが車内にどのように「漏れている」のかを突き止めました。もちろん吸音材も使いますが、最大の効率と最小の重量増加という課題を達成するよう、無響室(反響のない部屋)でのパネル共振分析などを利用して、材質の選択やその配置には細心の注意が払われました。」
(アウディ・エンジニアリングマニュアル)

 「当時の開発リーダーであった鈴木主査は、「YETの思想」という考え方を掲げて「圧倒的な馬力と燃費」など、両立が困難で背反する、性能要件の実現を求めた。また、「源流対策」という言い方をしていたが、高級車らしさにおいて大切な性能である、音や振動を減らすために、防音材をやたらと貼りめぐらすのではなく、クランクシャフトの精度をあげるなど、振動の発生要因、つまり「源流」を対策することにより、大幅な静粛性を得られ、高い品質の商品を生み出すことが出来た。」
(レクサス開発者の言葉)

 時間的に見て、鈴木主査に和訳されたこのマニュアルを見る機会があったとは思いにくい。「高品質」とか「最高速度250キロ」とか「低燃費」とかはあくまでもスローガンであって、それだけでは具体的な技術家の指標にならない。彼が主査に就任した1986年の時点で、彼のクルマの指標になり、クルマを構成する様々な要素に明確な基準を置き、それを実践していたメーカーはアウディであった。



6.新型UZエンジン

 1986年に鈴木一郎氏が計画を引き継いだ時、彼の手元にあった新型エンジンがアルミエンジン(UZ)であったことは幸運であった。このエンジンは次期高級車用に開発されたもので、排気量こそ小さかったが発展の余地があり、大幅なボアアップが可能であった。アルミは熱伝導性は良いものの、鉄の三倍変形しやすい。強度に余裕を持たせるためブロックが厚かったこのエンジンはボアアップして4リットルにすることが可能だった。どうもこれは3.2リットルのアキュラ対策用で、「世界水準」グルマを作るのにスーパーカブのメーカーであるホンダなんかを横目に見ていた鈴木氏以前のトヨタ開発陣の迷走ぶりが伺える。何をして良いのかも分からなかったのかもしれない。

 このエンジンは最終的にはシリンダーの径を1センチ近く拡げ、4.3リットルまでボアアップしたのだが、これは悪ノリといえ、2006年のレクサス店の展開と同時にこのUZエンジンは早々にお払い箱にされた。しかしながら、基本的にはチューンアップの職人芸だけで17年も使い回せたのだから、変化の激しかった時代のエンジンとしてはかなり長命な方ではないだろうか。しかし内壁が異様に薄いであろうことを考えると、先代(U31型)セルシオの中古車はちょっと怖い。このあたりユーザーの声を聞きたいものだ。

 あと、クランクシャフトは高価な部品なので日本車はあまり新しく作りたがらない。しかし、ベンツやBMWはいくらアルミとはいえ、後でブロックを削れるような設計をそもそもしてない。同じモデルでも排気量が異なるエンジンのクランクシャフトはいちいち作り直していて、これがこれらのクルマが高価な理由の一つになっている。賢明にもレクサスのエンジンは1機種のみなので、これが問題になることはなく、理想的な設計を行うことができた。

 上の図(省略)は数値の信憑性に疑問があるが、レクサスと同時代の各国のエンジンのリッターあたりトルクレシオをまとめたものである。ロングストロークのエンジンはシリンダーを動かす力がより大きいと考えられるのでその辺は除算した(このクラスでロングストロークはアウディのみである)。ジェットエンジンの推力対重量比と同じく、この値が大きいほど高性能であると見て良い。89年のレクサスは世界水準よりやや落ちるものだったが、10年かけて世界水準に追い付いている(レクサス2(U31型)の数値は明らかにおかしいのでドイツ・レクサスのものを使った。)。



7.クルマの買い方の地域格差

 倒産会社からサルベージした資料には他に後になって作られた販促資料もあったが、国産車ディーラーから人材を引き抜いたので、かなり売り込み色が強くなったとはいえ、元が元だけにドイツ会社特有のストイックな教師然としたムードは維持されていた。そこにはアウディ車の競合他車(特にダイムラー)へのぶつけ方についての記載があった。

 その前に、ドイツ人と日本人ではクルマの買い方がかなり異なることを説明しなければならない。向こうではクルマの購入はイベントで時間をかけて仕様を決め、数年待って納車されるが、日本の場合は夜店のバナナの叩き売りよろしく、新車のクセに色や仕様をほとんど選べないケースが多い。また、納車の方法も違っており、日本はディーラーマンが家までクルマを運んでくれ、古い車はドナドナと引き取ってくれるが、向こうはユーザーが工場に取りに行く。このオーダーメイド生産がドイツ車の作り方の基本である。

 ただ、輸出するクルマは船便の関係もあるので、ドイツ車も本国のようにいちいちユーザーの要望に仕様を合わせるわけには行かない。標準仕様を決め、月に数千台の単位で同じ仕様、同じ色のクルマがその国に運び込まれる。ユーザーに選択肢が無いのだから、当然、価格は安くしなければならない。そういうわけでドイツ車のアメリカでの価格は本国より3割ほど安くなっているが、それでも日本車に比べれば割高な観は拭えない。根本的に作られ方が違っているので仕方ないのである。このあたりの融通無碍な発想は日本人には分かりにくいが、こと北米では(あるいは日本でも)両者はほぼ同じ土俵に立っていると見て良い。違っていたのはバックグラウンドであって、これが違いを生んでいた。



8.強敵、新しいダイムラーの旗艦・・・W140型Sクラス

 会社の実態はジェネラル・モーターズ(GM)なのだが、トヨタの役員たちはなぜかダイムラー・ベンツに傾倒していた。1980年の時点でダイムラーは別に北米でのトヨタ最大の強敵というわけでは無かったし、外国車を事実上輸入規制していた日本ではもっと無視してよい存在であった。一台一台手作りで作られる、この工芸品のような乗用車は元々風変わりな金持ちの技術オタク向けのカルト・カーであり、あとは大使や独裁者のクルマであった。そしてダイムラーが得意とする最高速度や対テロリスト用防弾装甲は北米マーケットの普通のユーザーにはさして重要な要素ではなく、ここでキャデラックの次にダイムラーがアメリカで躍進したわけでもなかった。

 1980年代半ば、トヨタ同様ダイムラーも新型エンジンを用意していたが、これは排気量6リットル、V型12気筒の化け物のようなエンジンで、馬力は400馬力。これはレクサス用UZエンジンの2倍近い出力があったが、これは別にキャデラックの後釜を狙って開発されたエンジンというわけではなかった。ツーリングカー選手権の世界は既に500馬力級のマシンが戦うおそろしいものになっており、これはそこでこのエンジンを積んだ巨大グルマがエンジン全開で爆走するためのものであった。

 新しいダイムラーの旗艦は路上において地球上のあらゆるクルマを力でねじ伏せるものとして計画された。新型Sクラスはその重量は2トンを超え、Cd値は0.29、270キロの最高速度は126型のトップ・グレードを上回っていた(もちろんレクサスも敵わない)。一方でダイムラーの宿敵、バイク会社BMWも同等の新エンジンを用意しており、狂的な盛り上がりを見せるツーリングカー選手権の余波は路上に波及しつつあった。

 これを分かっていたら、トヨタの首脳陣が顔を引きつらせることなしに「世界標準」なる言葉を口に出来たかどうかは疑わしい。いずれにせよ、彼らの持つエンジンでは2トンのクルマを最高速度250キロに引っ張ることは無理であった。ただし、北米でのリサーチは新型車の潜在ユーザーである富裕層が現在の米国高級車の品質に強い不満を持っていることが示されていた。ダイムラーはその技術や品質は評価されているものの、対応が横柄なことも示唆されていた。

 高級車を買う客層は限られており、レクサスは「世界で最も競合の激しい市場」にクルマを売り込む必要があったが、リサーチの示した結果は北米で安いトヨタ車を買う顧客なら当然受けているサービスと製品の品質を彼ら富裕層は享受していないという事実だった。その点で、彼らにできることはまだ無いわけでもなかった。



9.世界最高の乗用車・・・トヨタ・セルシオ

 トヨタ自動車の鈴木一郎氏の名は現在の同社では「無かったもの」とされているが、やや自己中で耽美的な印象を与える、趣味のよいこのハンサムなエンジニアは技術的にも慧眼の持ち主であった。新型車の主管に任命された彼はまず住友金属を訪れた。およそ半世紀前、零戦の設計に行き詰った堀越二郎氏が同社を訪れているが、超々ジュラルミンを持ち帰った堀越氏同様、鈴木氏も新型防錆鋼板というお土産を持って帰った。これは特別な防錆処理なしにステンレス鋼のような高い耐食性を保証する新材料で、ロボットによる薄く入念な塗装と合わせれば、亜鉛メッキの重量を省ける分、車体の重量をおよそ10キロは軽量化しうるはずのものだった。

 軽量化と空力が新型車成功のキーになることは間違いなかった。さらに非凡なことに、彼は新型車の足回りに流行のマルチリンクではなく実績のあるダブルウィッシュボーンを採用した。201型とそれに続く124型の影響で各社(特に日産)はこの形式を新型車に採用していたが、そのトラクション特性は不十分であった。16年の時間を掛け、万全の準備で投入したダイムラーと比べれば、ノウハウの差は如何ともしがたかった。

 彼は空気バネを付け、レクサスのサスペンションは形式は旧式なものの、減衰力可変のこれにより、そのトラクション特性は最高時速250キロのクルマとして十分なものになった。乗り心地も良く、限界領域での過度特性以外は特に欠点も無いこのサスペンションはつい最近まで使われた。

 時速250キロを可能にする0.30のドラッグ係数と高級車に相応しい居住性を両立させるため、車体デザイン部門は風洞実験を繰り返したが、高速で走行する乗用車に発生する空気抵抗は空気の流れが車体から剥離する際に発生する渦から生じる。その影響を最小限にすべく整えられたフォルムは、いみじくもかつての日本海軍の主力戦闘機、零式艦上戦闘機に似たものになった。最終的なCd値は0.29、そして、空力を考慮してもなおそのフォルムは流麗であり、レクサスの車体は伸びやかに長く、そして零戦同様、終端が点に収束する(実際はトランクがあるのでカマボコ状)。そんなフォルムの乗用車は過去に一台も無かった。

 レクサスを設計していたエンジニア達は設計の後半に差し掛かる頃には分かっていた。自分たちの設計している自動車が性能や豪華さはともかく、エンジニアリングの絶対的な価値である効率においては、まさに世界の頂点に立つものになることを。



10.レクサス参上

 最終的にレクサスのサイズは全長5メートル、全幅1.8メートル、車両重量は1.8トンに納まった。空気抵抗係数は0.29、重量はこのサイズの乗用車としては決して軽量ではなかったが、これが時速250キロを突破する性能を持つ乗用車であることを考えれば努力賞というところであった。100キログラムはエアサスペンションによる。その性能はバランスが取れており、均整の取れたスタイリングはスポーティーな印象さえ与えた。

 パワートレーンの性能が不十分であることから、キャデラックやリンカーンなど米国製大型高級車との対決は見送られた。装備と価格で勝負したのでは、レクサスは現地製造のこれらと勝負になるはずも無かった。レクサスは対決する目標を最初から同じ輸入車であるヨーロッパ勢に絞った。

 6万ドル超の高級車によるこの対決の演出は一般の購買層の意識からはかなりかけ離れていたが、比較広告ではレクサスはこれらヨーロッパ車には常に勝利した(比較といっても同等仕様のキャデラックと比べたら負けるだろうとか、価格を比べられるヨーロッパ車がSクラスなど格上のクラスばかりで、フルオプションのトップグレードだという事実は都合よく無視された。なお、性能テストでは格下のダイムラーが良く用いられた)。

 戦略的に決められた、そのサイズも有利に作用した。フルサイズ車にしてはやや小振りなレクサスはヨーロッパ車には対抗しうる有力なクルマが無かった。ダイムラーでも全長4.7メートルのミディアム(Eクラス)は明らかに格下だったし、Sクラス(全長5.2メートル)はぶつけるには高価すぎた。BMWも事情は同様で、アウディはフラッグシップのV8はツーリングカーレース以外は社長のピエヒさえ存在を忘れていたような乗用車だった。唯一対抗できそうなクルマはジャガーだったが、これは余りにも古すぎた。思わぬ強敵の出現にこれらヨーロッパ勢は大混乱に陥った。

 実際にレクサス店の稼ぎ頭になったのはフラッグシップであるこのLSではなく、ごく平凡な乗用車カムリの豪華版というべきGS-250(日本名ウィンダム)やランドクルーザーだったが(いいかげんなことにこの「ランクル」のエンジンは同社のシーラカンス車センチュリーの改良版が用いられた。材質も構造も別物のこのエンジンは旗艦のLSと同じUZエンジン(2UZ)と呼ばれ、これは「レクサス」車として販売された。)、実力でメルセデスやBMWと張り合えるモデルの存在はレクサスを稀有の大成功に導いた。



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