キャプテンハーロック

考察(2) 引き継がれなかった作品の本質

1.組織者ではないハーロック

 海賊集団をアッサリと解散したハーロックについては、元々この人物には集団を維持する発想はなかったように見える。先に彼らを初期の仏教教団(サンガ)に似たものと書いたが、そもそもこの集団ができたのは、釈尊の入滅後、彼の言葉を直接聞くことができなくなった民衆が弟子たちに師について語ることを求めたからである。戦いが終わり、地球の市民に彼らの言葉に耳を傾ける余裕が生まれた時点で、彼が海賊を解散することは彼にしてみれば当然で、マゾーン決起で政府が崩壊し、機会が到来したことで実行に移したことは、筆者には違和感のないものに見える。
 ハーロックと40人の海賊たちの性格については32話で少し論じたが、釈尊の創始したサンガは在家者の喜捨によって支えられ、出家者が修行の成果を在家に還元するものである。出家と還俗は何回しても良く、サンガの存続が他のあらゆることより優先するものでもない。必要とあらばサンガを再編することもでき、それは合議により自由に決めることができた。現在でも上座部仏教には大小様々なサンガがあり、各々が信仰に寄与している。
 つまり、彼らを集団として捉える際に「同じ釜の飯を食った」とか、「思想を同じくする」とか、「共通の目的」という、ありふれた概念で捉えてはいけないのである。釈尊の教えの真髄は自尊自律で、サンガはその修業の場を提供するものである。それは求める者がいる限り成立しうる。釈尊の創始した仏教は2,500年間もの間続き、今だ凋落の気配もない。
 こう書くと人によれば、筆者が彼らを宗教団体として捉えていると考えるかもしれない。確かに似た部分はある。が、釈尊の時代の原始仏教は宗教ではなかった。彼の教団の実態は、まさしくアルカディア号の乗組員のようなものだったのである。
 タイトルが宇宙海賊なので、主人公らが略奪をしたり敵を殺したりすることは仕方がない。が、その場合でもハーロックが全42話を通じてただの一人の地球人も殺めなかったことには注意すべきである。略奪にしても前提には悪政を行っていた地球政府がある。それ以外で彼が略奪をしたことはなく、もちろん女性を襲ったこともない。彼らは修行者、出家者のような生き方に甘んじ、むしろ楽しんでいる風である。アルカディア号は乗組員の総体(Gesellschaft)ではなく、「場(forum)」として機能していると考えるべきである。

2.ビルマ仏教がオリジン

 こういう考え方は上座部仏教を継受しなかった日本では理解することさえ難しいものである。が、全く理解がなかったわけではない。旧陸軍の参謀で1961年にラオスで行方不明になった辻政信はホテルに旅行鞄を置き、僧に扮装して現地に分け入った。一説では池田首相の指示で秘密工作を行い、ホーチミンや毛沢東との面会を企図していたとも伝えられる。
 諜報工作に際し、辻が用意したのはUSドルの札束ではなく、鉢と二枚の布だけだった。辻は上座部仏教では托鉢で生を繋ぐことができ、身の安全が保たれることを知っていたのである。もっとも、辻は後に共産ゲリラに処刑されたと伝えられている。
 辻も知悉していたことから、このビルマ仏教(上座部)の生活様式が、戦前にビルマに駐留していた日本軍の将校や兵士に影響がなかったとは考えにくい。念仏と葬式仏教しか知らなかった日本軍人にとって、全く異なるビルマの仏教者の在り方には衝撃的なものがあったはずである。
 松本の父は戦前に陸軍航空隊の将校を務め、ビルマの宗教について知る機会はあった。彼が息子に話し、松本がそれを咀嚼した結果、SFの戦闘集団としてはかなり特異なハーロックと40人の海賊、そしてアルカディア号が誕生したのだろう。アルカディア(arcadia・理想郷)という艦名もあまり戦艦らしくない。他者に不干渉のハーロックのスタイルも、その淵源は古い仏教にある。

3.分かっていなかった制作者

 筆者はこの物語をこういうものとして理解しているが、本作で監督を務めたりんたろうは最終回で宇宙に去ったハーロックにつき「どうせノタレ死だろう」と揶揄している。全42話の制作に関わりながら、彼は松本が描いた物語の核心部分についてはほとんど理解しなかったのである。生きながら機械になった人間(解脱者)が艦の中心に鎮座し、求道者(比丘)のようなリーダーが少年(沙弥)を導く物語を目の当たりにしながら、それが何であるかを理解することは実際に制作に携わった者にとっても難しかったはずである。りんは後に本作の続編を制作するが、そこで描かれているハーロックは本作の彼とは別人である。
 彼の口癖である「死に場所を探す」は、まごうことなき彼の本心だが、聞く者によって全く違った意味に取れる言葉である。筆者は釈尊の唱えた再生なき死、涅槃(ニルヴァーナ)のようなものだと理解している。この人格の基軸を外したりんや福井晴敏のハーロックが違う人格になるのは当たり前である。
 ハーロックに取って宇宙海賊は方便にすぎなかった。各地に散った乗員も求めるのは自己鍛錬であり、乗艦によって得た経験を他者に還元することである。彼らはたまたま海賊の姿を借りたにすぎず、時が来れば散った集団は形を変えて再生するのである。彼らの自尊自律は滅びることなく、それが不当な力により侵されたと感じた時、彼らは再びアルカディア号に乗艦して宇宙を駆けるのである。
 宇宙に消えたハーロックはしばらくの休息の後、友人トチローとの対話を続け、やがて次の道を歩み出したはずである。何物にも縛られず、常に誇り高く生きる彼にとって、ノタレ死というりんが提示した結末は、最もありそうにないものに違いない。



>>考察(3)へ


since 2000