キャプテンハーロック

考察(1) ラストの太宰治「右大臣実朝」の引用について

1.「ヒカリ」と「ヤミ」


 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」

 物語の最後に太宰治の「右大臣実朝」の一節が特に印象もなく提示されるが、これは松本零士は繁栄の虚飾と戦後に彼が見た焼け跡からの復興に似たものと理解しているようである。挿絵も芭蕉のような旅僧が夕日を見つめる場面で、猿楽を楽しむ原典の描写からはかなりかけ離れている。平家物語では「ヒカリ」とは公卿や貴族化した平家のことであり、「ヤミ」とはその日暮らしの鎌倉武士のことである。
 頼朝が開いた鎌倉幕府は陰鬱な政権で、御家人同士の内紛が絶えず、政庁である大倉御所でも血刃による暗殺が公然と行われるような様子だったが、その原因は平安貴族社会における彼ら自身の出自にある。

「われ右筆の身にあらず、武勇の家にむまれて、今不慮の恥にあはむ事、家の為身の為心うかるべし。せむずる所、身を全うして君に仕ふといふ本文あり」 (平家物語巻第一「殿上闇討」)

 中国の古典や詩歌を学び、先例や徳治を重んじた公卿に対し、政治に関わらなかった武士は古典など読まず、手段も闇討ちなど卑怯な手段を多用したことから、公卿たちは彼らを「文字に昏い(暗い)」者ども、世間の批判や評判を顧みない「闇(ヤミ)」と軽蔑したのである。
 松本が引用した部分は実朝が平家物語の鑑賞の際に残した感想で、公家的教養を身に着けて「ヒカリ」に寄った平家が武士本来の姿を失っていることを揶揄した言葉である。「武士が公卿(ヒカリ)を気取っても所詮は闇(ヤミ)」という嗟嘆だが、実朝自身は公家的な教養人で、それゆえに自分も滅ぼされるのだという自虐を含んだ言葉である。実朝は暗殺者の凶刃に斃れ、以降の鎌倉幕府は「ヒカリ」である公卿を征夷大将軍に立て、武士勢力は裏方として働くことになる。約700年間続いたこの時代を武家政権という。

2.「ヤミ」を意識していた徳川幕府

 鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れると境内への大階段の脇には大きな銀杏の木があり、この場所で源実朝が暗殺されたことが伝えられている。階段は広く開けており、すぐ脇の大銀杏の周りはいかにも暗殺者が忍んでいそうなうっすらとした暗い場所である。実朝を暗殺した公暁は八幡宮の別当で実朝は叔父に当たる。動機は怨恨とされるが、直線的で明るく開けた八幡宮の伽藍配置も暗殺を容易にしたものとして見逃せないだろう。
 それに対し、日光東照宮の徳川家康の廟所は、まず本殿自体が入り組んだ複雑な配置で、廟所への通路は回廊の東側にある。入口は伽藍を囲う回廊の一部に隠され、目印は有名な左甚五郎の招き猫である。戸板を外し、廊下を剥がすと初めて廟所への入口が現れる。伽藍を回り込み、狭い階段を登って廟所に辿り着くと、拝殿は絢爛豪華な本殿とは正反対の陰気な緑青色の建物で、昼なお暗い境内にあって、何ともいえぬ不気味さを漂わせている。
 廟所までの通路は良質な花崗岩を切り分けた石造りで、緻密に積まれた通路の幅はごく狭い。塹壕のように姿を隠せるようになっており、周囲に暗殺者が隠れられるような場所はどこにもない。事情を知らなければ将軍が参拝したことは宮司にさえ分からないようになっている。このような設えは400年前の実朝暗殺の故事を意識したものと伝えられている。歴代の徳川幕府の将軍たちは、自分たちが「ヤミ」であることを良く知っていたのである。
 輪王寺は東照宮の下手にある。輪王とは古代インドの徳のある王のことである。善政を行い、特に貧者の救済に力を尽くした。代々王位を継承し徳政を行うが、やがて治世は乱れ、争乱の後に新しい輪王が立つことを繰り返すという。輪王の輪とは輪廻転生のことである。輪王寺の門跡は代々「ヒカリ」である皇族が招聘されて務めている。
 東照宮と輪王寺を併せて日光山といい、東北から江戸を守る幕府の神域である。「ヤミ」と「ヒカリ」を明確に区別したことは、鎌倉幕府はもちろんのこと、室町幕府や信長・秀吉の政権には見られなかったものである。長期支配の秘訣が尊王であることを家康は理解していた。
 この政治学を体系化したのが大日本史を著した徳川光圀で、編纂は光圀の死後も続き、水戸学と呼ばれた。その泰斗である藤田東湖が起草した弘道館記には幕府支配の正当性が簡潔に書かれている。

「東照宮撥亂反正尊王攘夷允武允文以開太平之基」
(東照宮は乱を払って正道に復し、天皇を尊び夷狄を払い、武を盛んに文を盛んに、以て太平の基を開く−−−弘道館記)

 藤田の文章は家康が戦乱を鎮め、天皇に国防を委任されたことまでは書いてあるが、「允武允文(いんぶんいんぶ)」には明確な主語がなく、これらが幕府の権能に属さないことを暗示している。武芸や文化(現在でいう経済活動)を盛んにすることは平時の事柄で、内乱鎮圧や国防とは直接の関係はなく、平時の政治は「ヒカリ」に属する。もっとも家康を主語に「文武に優れ」と読むこともできるが、「允」には(天子による)許可の意味もある。
 徳川体制においては治安軍事は幕府の権能であったが、その他については幕府が行った政治を天朝が「追認」するものであった。禁中並公家諸法度で天皇や公卿は厳重に管理されていたので、それが問題になることは260年の間なく、暗殺に斃れた将軍も一人もいなかった。室町幕府の将軍の3人が暗殺に斃れ、半数が非業の死を遂げたこととは対照的である。室町の将軍義満が皇位を目指したような軽躁さはこの政権には無縁だった。「ヤミ」は「ヒカリ」にはなれないのである。
 徳川幕府の崩壊が「ヒカリ」と「ヤミ」の合一を図った公武合体以降、急速に進んだことは興味深い。水戸学は幕府の統治の正当性を理論化したが、同時に法理論的弱点をも白日の下に晒し、弘道館を通じて全国に膾炙したことから、これが後の倒幕の遠因となった。



3.「ヤミ」を容れた明治憲法

 徳川幕府を倒して政権を掌握した明治政府は形式的には憲法を擁する立憲君主制の国家だったが、大日本帝国憲法発布の勅語には次のような一文がある。

「惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ」 (大日本帝国憲法上諭)

 上諭は「祖宗ノ威徳」と「臣民ノ忠実勇武」を並置しているが、帝国憲法は1条で天皇を主権者と定めているので、臣民の方は構文上必要ないものである。また建国でも帝国を作ったのは天皇だが、「臣民祖先ノ協力輔翼」あってのものと明記されており、授権者と執行者が明確に分けられている。あえて臣民の事績を挿れ、恩着せがましくことさら強調する奇妙な文章でもある。もちろん書いたのは天皇本人ではない。
 ここで言う「ヒカリ」とは統治の正当性であるが、議会政治が健常に発展したなら天皇による後盾は帝国憲法の下でも必要ないものである。「ヤミ」の本質は簒奪で、民主政治の制度のない時代では権力奪取の方法は他になかった。明治憲法は議会政治を具えており、選挙で合法的な政権交代が可能であった。
 維新以降で「ヤミ」が再び立ち現れたのは、明らかに簒奪であった太政官制から大日本帝国憲法公布までの21年間と、5.15事件から太平洋戦争終結までの13年間である。特に太平洋戦争のそれは日本をあわや破滅寸前まで追い込んだ。

4.敗戦と「ヤミ」の政治学

 終戦記念日になると、太平洋戦争の悲惨な映像と共に、当時の経験者の体験がテレビで流される。視聴して首を傾げるのは、戦争の悲惨さはもちろんのこと、当時の軍部が「国体」なるものに異常なこだわりを見せていたことである。「国体」とはすなわち天皇であり、この文章でいう「ヒカリ」である。
 太平洋戦争を起こした軍部は自分たちの権力が正当なものでないことを知っていた。権力奪取の方法の如何を問わず、「ヒカリ」をさえ押さえればこの国の統治が可能なことは40年余の議会政治の経験にも関わらず、700年間の武家支配によって民族的なDNAとさえいえるものになっていた。天皇機関説を停止し、議会政治を窒息させ、陰謀に暗殺とありとあらゆる手段を用いて権力を掌握した軍部にとって、国民の支持というものは問題ではなかった。まさしく彼らは鎌倉幕府の思想的後継者である。
 だが、「ヒカリ」を失えば、彼らの行いはありとあらゆる所から糾弾され、数ある政治結社の一つに過ぎなくなり、鎌倉幕府のように権力を巡る争いが際限なく繰り返されることになっただろう。彼らが「ヒカリ」=国体を失うことを恐れた理由はここにある。
 それだけではなかった。戦争が続いていたことから、上陸した連合国も交渉の当事者を定めることができず、本土決戦は定期的な原爆投下を交えながら何年も続いただろう。
 このことを知ってか知らずか、マッカーサーは要領よく天皇と和解し、彼らから「ヒカリ」を奪い去った。簒奪政権であることについては徳川幕府もGHQも違いはなかった。7年もの間、彼は実に日本的な方法でこの国を統治した。
 新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした後の鎌倉は元の一寒村に戻り、御所は朽ち果て、津波で御堂を流された鎌倉の大仏は何百年も露座で風雨を受け続けた。人はまばらで省みる者もなく、打ち捨てられたかつての武士の都は歴史の表舞台から姿を消した。政治的天才だった頼朝の墓がどこにあるのか、今は知る人もいない。
 「ヒカリ」を失った「ヤミ」のこれが末路であった。軍国主義から解放された日本国民が過去をゴミクズのように捨て去り、かつての高官や軍人に罵声を浴びせたことは、今さら驚くに値しない。

5.書き換えられた「ヒカリ」

「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。」 (ポツダム宣言)

 宣言を受諾したことにより、「ヒカリ」は憲法学では正当性の契機に書き直され、天皇も人間になり、「ヒカリ」と「ヤミ」の政治は役割を終えたように見える。日本国憲法第一章は天皇について規定しているが、大学の講義では意味のないものとして読み飛ばされている。少なくとも議会政治の体裁を無視した権力の掌握は我が国ではできないものになっている。
 しかしながら、その後も自民党の一党独裁が30年間続いたことや、55年体制終焉後の政権交代で政局が安定せず、野党が離合集散し、不安定で場当たり的な政治が何十年も続いたことを見れば、果たして本当にそうなのかと疑問を感じることもある。戦後にアメリカでに留学した識者たちは民度の向上を訴えているが、筆者は極めて懐疑的である。
 ひょっとしたら、この国に「国民」なるものが成立する余地は、中国文明が千年前の唐の滅亡で終焉して現在の共産党政権はその惰性であることと同様、800年前にすでに絶たれていたのかもしれない。数百年もの間、綿々と簒奪を許してきた日本国民の根性は民族としてすでに蕩尽しており、主権者に擬することは望めず、強権による支配を喜々として受け容れている中国の国民同様、歴史の中ではすでに終わっているのかもしれない。
 体裁は何であれ、不正な手段による権力奪取を座視したなら、投票に行かないこともこれに含まれる、権力を行使するに手段に頓着しない「ヤミ」の跳梁を許していることと同じことである。しかし、今の日本国民には、これは言ってもムダかもしれない。

「ドコヘ行ツテモ、同ジコトカモ知レマセン」

 太宰の作品では、直後に実朝は斬られるが、松本零士の理解とは異なる意味で、明哲すぎるこの将軍は「ヒカリ」と「ヤミ」という、この国の政治権力の特質を正しく喝破していたのである。




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