「助っ人」は心強い味方である。しかし期待通りの働きができなければ、シーズン半ばには「ダメ外人」と呼ばれるようになっている。何度も不振に喘いだアリアスは「助っ人」たり得たか?
阪神には、助っ人にさらに別の呼び名がある。4月始め「今年こそ優勝だ」の期待とともに現れる「バースの再来」がそれである。近年ではブロワーズ、ジョンソン、タラスコ、クルーズ…みなシーズン当初は「バースの再来」と一度は呼ばれたものである。しかし、それは幻でしかなかった。
アリアスは幸い、「バースの再来」とは呼ばれなかった。彼は右打ちだったのだ。その代わり「フィルダーの再来」と言われた。フィルダーというところが微妙すぎて、期待していいのかどうか、よくわからなかった。
この印象はずっと尾を引いた。「助っ人」としては微妙なのだ。期待して見ていると打てない。じゃあ期待せずに見守ろうと思う。しかし「期待せず」と思う時点ですでに期待している。しまいには、自分が期待しているのかどうかさえ、わからなくなってしまう。
にもかかわらず、選手別応援歌の歌詞は奮っている。「メシア・フロム・USA」である。いくらなんでも大げさすぎないか。阪神ファンでも何でもない人が聞けば、そう思うだろう。けれど、私はそれこそアリアスにぴったりの称号だと思っている。
メシアとはいかなる存在か。メシアは十字架を背負わなければならない。自己犠牲を払わなければならない。バカにされ、人々に傷つけられなければならない。奇跡を起こさなければならない。一度死んで蘇らなければならない。そして愛の人でなければならない。
これをアリアスにあてはめてみよう。背負う十字架とはもちろん「優勝」。引っ張るのをやめて「ワダサンスタイル」で打つことも躊躇わない。2002年のシーズン中には久万オーナーから「役立たず」とまで言われたが、そこから奮起してフィルダー以来の30本塁打を達成。今シーズンは濱中、片岡とともに18年前を彷彿させる3連発本塁打を放つ「奇跡」を起こした。6月にはウイルス性腸炎で2軍落ちしたが、その間に右打ちに取り組み「ニュー・ガイジン」に生まれ変わって再登場。そしてオールスターでは愛息ジョージJr.とともにベンチ入り。巨人・木佐貫が子守りをしたことで、日頃アンチ巨人から「不細工」と言われる木佐貫の好感度アップに貢献した。オールスター後再び打撃不振に陥るが復活。9月2日の広島戦では5打数4安打、うち本塁打2本で「アリアスナイト」を演出した。
「助っ人」としてどうかと言われれば、やっぱりどこか微妙である。遙か彼方からやってきて苦境を助け、いつの間にか去っていくウルトラマンのような存在ではなかった。むしろこの阪神というチームの「一員」として、浮き沈みしつつ苦楽を共にしてきたのだ。誰々の再来ではなく、こんな存在は今までなかった、と敢えて言いたい。
敬虔なクリスチャンで、ホームランを打つと首にかけた十字架にキスをする。何より、忘れられないのは5月31日の巨人戦、9回表の大逆転劇だ。同点に追いついたところでアリアスは十字を切って打席に入った。そして走者一掃のツーベース。私自身もクリスチャンだから、信仰を持って戦う姿に心打たれた。だからこそ、未完のメシアをもっと見ていたい。日本一は目の前の目標にすぎない。次なる夢は「連覇」なのだから。 |