■総評「スポンサー涙目のオタクアニメ」
1.すべった「二匹目のドジョウ」
2016年のホンダとヤマハの協定で、今はヤマハ車もホンダの工場で作っているので、ホンダの熊本製作所で作られた「ヤマハ車」、ヤマハ・ビーノが「ゆるキャン△」のヒットで売れているのを見て、「二匹目のドジョウ」は誰かが考えるだろうとは思ってはいた。アニメ「スーパーカブ」で、ビーノの売れ行きを見た(しかも自分の所で作っている)ホンダが全面協力するのは当たり前である。
しかし、出来上がった作品はどうだろう。何を間違えたのか、持ち上げられているのはMDだのCTだのといった前世紀の旧型カブばかりで、主人公の小熊さえ乗っているのは20年前のAA型カブ、これは15年前に新型が出たことで終わったはずのクルマだ。しかも、登場人物らは現行の最新型カブには見向きもせず、排ガス未対策の旧型を礼賛している始末。協力したホンダは頭を抱えているに違いない。
2.無視された「現行カブ」
現行のスーパーカブは2007年に生産終了した旧型とは別の車であるが、それでもカブらしい美点は引き継いではいる。車軸はマフラーを外さなくても簡単に外せるし、タイヤ交換もパンク修理も容易だ。チューブ式のタイヤは自転車用ポンプがあれば空気を入れることができ、チューブレスのようなコンプレッサーは必要ない。あまり減らないブレーキドラムの交換も容易だ。オイルの交換サイクルも伸びている。
精度が向上したアルミエンジンの耐久性は旧型を上回るか劣らない。エンジンは電子制御で中低速のトルクが太らされ旧型よりも扱いやすい。筆者などは旧型の宗一郎時代の経験則(チェーンドライブとか)や迷信(ボトムリンクとか)に囚われていた部分がスッキリし、普通になった印象さえ感じている。ミッションも4速で、どちらを選べと言われたら筆者などは迷わず現行型だろう。
3.「ヲタクの沼」
「ヲタクの沼に嵌ってしまったな」というのが作品を見た筆者の印象で、特定の人間にはキャブレター式でパーツも豊富な旧型は新型よりもいじりやすい。コンピューターもなければλセンサーもなく、礼子のMDに至ってはブローバイ対策もしておらず、エンジンが小さいので締め付けトルクも適当で足りると自動車を走らせる上で面倒なことはあまりない。そういった愛好家が多いことも知っている。しかし、それは本当にメーカーが支持すべき顧客層だろうか。
排ガス対策をしないクルマは馬力は出るが、今やこのカブよりもNOx排出量の少ないクルマは数多ある。趣味は他人に迷惑を掛けない範囲でのみ存続を許される。たかが道楽でも逸脱は見逃すべきではない。
アニメツーリズム協議会など作り、先進的な取り組みをしている北杜市も良い面の皮である。山梨が作品の舞台であるが、映されるのは専ら武川町の映像ばかりで、同市にあるはずの清里の別荘地や白州のワイナリーなどには霞めもしない。武川町も町内唯一の温泉は紹介されず、銘柄米の武川米も全く映らない。それに山梨が舞台なのに「ほうとう」、「ぶどう」、「白桃」が一度も出てこない。登場人物たちはひたすら自分たちの関心だけを追い続け、他には目もくれないように見える。
費用を掛けて登山道の整備をし、ピーク時には1日1万人が訪れる富士山の安全に腐心していた静岡県も被害者だろうか。年に何億円を掛けて整備したブル道をバイクでぶっ飛ばす映像には、同県の関係者は呆然を通り越して怒りを覚えたに違いない。若さには好ましい部分もあり、畑違いでも何でも首を突っ込んでチャレンジする姿勢は最初のうちは大目に見ても良いものである。しかし、やらせてみて自分の置かれている状況に理解の薄いこと、学ぶ意欲がないこと、経験者に対する尊敬や理解に欠けている所があれば、それは大目に見ずにガツンとやらなくてはならない。
続編を読むと分かるのだが、主人公たちは「冬の甲斐駒ケ岳をバイクで駆け下りる」とか、「(夏は登頂したので)今度は冬の富士山にカブで登ろう」などと言っている。それがどんなに危険で命を失う危険があり、高度な技術の熟練が必要で、いくつかの規制を破って投獄される覚悟なしにはできないことか、登場人物にも作者にも自覚がないらしいことが腹が立つ。
4.「オトナ」の無責任
しかし、放埒な作品を野放しにしてしまういちばんの問題がある。それは今の日本社会の病理、「大人が大人として振る舞わないこと−−−大人の無責任」である。この病理の萌芽は何十年も前にあったように見える。ちょうどバブルが崩壊し、この国が方向を見失ったあたりからだろうか。多元主義(プルーラリズム)が主張され、多様な価値観を認めよう、その実はあらゆる責任から逃避しようという主張を学者が始めたあたりである。自分にも他人にもあいまいな大人が社会の枢要に付き、ありとあらゆることへの深入りを避け続けたなら、それは当時でも危惧されていたことだが、社会の仕組みが崩壊して当たり前だ。今、その実例を我々はコロナ禍で見ている。
そこまで言うのは言いすぎかもしれない。内容はともかく映像は良い仕事をしている。映像の滑らかさは切り捨てられているが、こと北杜の空気感、少女とカブのある世界については問題点を帳消しにするほどの出来栄えで、それは高く評価されていい。
が、ここにも利己的な大人の姿がある。映像にそれほどのこだわりがあるのなら、ホンダにやらせたカクカクした3Dはともかく、なぜ作中に登場するパン屋、インノさんのこだわりを理解できなかったのか。大滝町から武川町に店を移した件だが、原作にはそう書いてあるにしろ、それはすべきではなかった。職人の仕事に敬意を持てるなら、体を張ってでも止めさせるべきことだった。
5.そして誰もいなくなった
この作品を評論するには筆者にも困難を伴った。元々このサイトでは映像技術は評価に含めないことにしている。映像は作品の従者であり、そうではない「目に見えないもの」が評価の対象である。筆者にはこの作品は各々の立場でそれぞれが同床異夢、違った目的を追っているように見えた。
過去にも同様の作品はあった。しかし、それらの作品の場合は、空中分解の危機を見て立ち上がり矢玉を受けながらも、とにかく前に進めようという少数のスタッフの姿を見出すこともできた。
が、今回は本当に誰もいない。監督は映像が評価されたことで次の仕事はたぶんあるだろう。一部の声優は名前を売り、作者は適当に処遇され、意図しない作品になったホンダや北杜市の関係者はきっと誰も責任を取らないのだろう。このバラバラ感が見えてしまうと、視聴感は何ともいえないモヤモヤしたものになる。批評の中心を定めることができず、レビューもいっそ止めたらと何度も考えた。同程度の作品なら数多あるではないか。
「河川段丘」といった誤植を直さないKADOKAWAもひどい。探せば他にもあるだろう。筆者が気づいた中には「木曽サーモン」、「有明海のアミの塩辛」があった。これらはしてはならないこと、関係者が読んだら怒り狂うような間違いだ。
制作論的には、この作品を取り上げる意義は進歩した映像技術の中にあっても原作の質は作品の質を決める決定的なファクターであることだが、設定の明確化など細かい話は他にもあるだろう。特に設定については原作にそれがないこともあり、方向方位のミスが通常以上に目立つ作品になった。最初にきちんと決めておき、図版を描いてブリーフィングで共有すれば良かった話である。
6.続編は期待できない
続編はどうかと思うが、原作を一読した印象では、この作品には続編の制作に耐えられるポテンシャルがないように見える。「ヲタクの沼」と書いたが、スポンサーも視聴者も誰もそれを求めていないし、現在では入手困難な旧型カブにこだわる姿勢もユーザーの裾野を広げるに魅力のないものである。ライフスタイルを提案するにはキャラクターがもう限界に達している。誰が冷めたレトルト飯など食べたがるのか。それでも作られるなら、それこそ無責任の産物で、筆者がレビューすることはたぶんないだろう。
筆者は高校3年から大学時代にカブに乗っていて、作中の小熊の境遇に少し被る部分がある。ブロック修正はしなかったが、実家までの片道200キロの往還や富士5合目もこれで登ったので、このクルマの長所も短所も良く知っているし、今でも補助車に90ccを保有している。優秀なスクーターが数多あるのになぜこれかといえば、カブはスクーターが使えないエンジンブレーキが使え、状況によってはスクーターより機動性が高く、運転もより楽しいからである。中途半端なリヤシートではなく荷台があり、荷物をより多く運べることも見逃せない。新型カブは筆者が使っていたクルマにスペックは劣るが、技術の進歩でより使えるクルマになっている。
第6話では礼子が新型カブにつき「あんな電子制御のカブにCTの代わりが務まると思う?」と揶揄する場面があるが、そのクロスカブはオーストラリア郵政公社で立派にCT110の後継を務めている。関わったほとんどの全ての人間にとって、アニメ「スーパーカブ」の行くべき方向性はそちらではなかっただろう。が、改めるにはもう遅い。
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