機動戦士Zガンダム MOBILE SUIT Z GUNDAM

Zガンダム 1979年4月7日〜1980年1月26日
TV放映

原案矢立肇/富野由悠季
総監督富野由悠季
キャラクターデザイン安彦良和
メカニカルデザイン
大河原邦男/藤田一己
デザインワークス永野護
音楽三枝成彰

スト−リ−

 宇宙に浮かぶスペースコロニーのひとつ、グリーン・ノア。この地で暮らす高校生カミーユ・ビダンは空手部に所属していたが、その日は部活をさぼって港へと急いでいた。彼は地球からの定期便「テンプテーション」の艦長で、一年戦争時にホワイトベースの艦長として活躍したブライト・ノアに会いたかったのだ。しかし、カミーユは少し遅く、ブライト艦長に会うことはできなかった。そこで、カミーユの名前を耳にしたティターンズの士官(ジェリド)が彼のことを「なんだ、男か」といったのに激怒して、その士官になぐりかかってしまう。そのころ、グリーン・ノア(グリプス)のコロニー内に、赤いモビルスーツが侵入していた。そのMSは、コロニー内にMSのドックがあるのを確認、さらにガンダムらしきMSがあるのを認めて撤退する。攻撃を受けたコロニー内は、パニック状態になっていた。なかでもコロニーの連邦軍本部の建物に、過ってジェリド・メサの操縦するガンダムMkIIが「突っ込んで」しまったために、本部は大混乱に陥っていた。そんな中、士官(ジェリド)を殴った罪で軍本部に拘束されていたカミーユは、この騒ぎに乗じてその場を脱出、何かに向かって走り出していた・・・。
 撤退した赤いMSに乗っていたクワトロ・バジーナ大尉は、母艦のアーガマに命じてメガ粒子砲でグリーン・ノアを攻撃させる。そしてコロニーの隔壁に穴をあけ、そこから再度、アポリー、ロベルトとともにMSでコロニー内に侵入する。目的は、先に確認したガンダムの奪取であった。この動きをうけて、ティターンズのバスク・オム大佐が動き出す。侵入したMSを迎撃しようというのだ。コロニー内でとうとう、MSが始まった。そのころ、軍本部から脱走したカミーユは、ティターンズの基地に向かって走っていた。MSの格納庫近辺では連邦軍のブライト・ノアが陣頭指揮をとっており、エマ・シーン中尉がガンダムMk-IIで出撃するところであった。エマがガンダムに乗り込もうとしたそのとき、カミーユがそこに割り込んで勝手にガンダムに搭乗し、そのまま発進させてしまう。彼はそのガンダムで、軍に拘束されたとき自分を殴ったMPを踏みつぶそうとしたのだ。そして、彼はコロニーに侵入してきた「敵」とおぼしきMSに向かって言った。「そこの赤いモビルスーツ、味方する!」---こうして少年カミーユは、地球連邦軍/ティターンズに反乱を起こした反地球連邦組織エゥーゴの戦いに身を投じていく。

物語の背景

 一旦打ち切りになったはずの「機動戦士ガンダム」が一部マニアで高く評価されていることを受けて再放送され、プラモデルとの相乗効果で大ブレイク。劇場版3部作公開後もその余波はおさまらず、続編を望むファンの声と、さらにプラモデルを売り続けたいスポンサーの希望とに動かされて企画された、「機動戦士ガンダム」の続編となる物語である。
 続編なので、最初の作品から7年後という舞台設定がなされているが、なぜか前作同様、一般人の少年がふとしたことからガンダムに登場し思わぬ能力を発揮するというパターンを踏襲。善くも悪くも、ガンダムシリーズを一つの型にはめてしまうこととなった。
 世界観は続編ということで前作を継承しているが、特記すべきは次の3点である。

(1)変形するモビルスーツの登場
 ロボットアニメの定説をうち破って(ほとんど)「合体しない」「変形しない」をスタンダードに掲げたのが前作だったが、本作ではその設定を捨てて「変形」するモビルスーツが続々登場してきた。しかし、「なぜ変形すべく“進化”したか」という説明は、本作の中では明確に語られていなかったように思う。

(2)戦争で潤う軍需産業「アナハイム・エレクトロニクス」
 前作に比べて格段に戦争の様相を複雑化させているのが、この巨大軍需企業「アナハイム・エレクトロニクス」の存在である。軍需産業による利益拡大のため、エゥーゴを支援して戦争を仕掛けているのである。しかしこのような企業の関係者が艦艇に搭乗して最前線にまで出向くという展開はあまりにも現実離れしているように思われる。Zガンダムの世界において、ヴェトナム戦争における“ベスト&ブライテスト”(ホワイトハウスを陰で支え動かす、アメリカの選び抜かれた俊英たち)に匹敵する存在となり得ただけに、中途半端な描き方でかえって物語をつまらないものにした。(D・ハルバースタイム著『ベスト&ブライテスト』全3巻 朝日新聞社・朝日文庫)
 なお、このモビルスーツの生産を手がける軍需企業アナハイム・エレクトロニクスが、本作のスポンサーである「バンダイ」を暗喩していることは、事情通には容易にくみ取ることができるであろう。

(3)人工的ニュータイプ「強化人間」
 前作に比べて最初から強調されているのが「ニュータイプ」である。ニュータイプ能力を積極的に戦闘に活用すべく、ニュータイプ専用機というモビルスーツが登場している。と同時に、人工的に作り出したニュータイプ「強化人間」の存在が、物語の上で大きな位置を占めている。マインドコントロールによって戦闘を強要される強化人間という設定は、前作の続編を「意に反して」作らなければならなかった制作者の心情の発現ともとれるもので興味深い。
 現実的に見れば、特定の人間を特殊な技術を用いて強化人間にし、さらに強化人間のために専用機を開発することと、一般の兵士をよく訓練し、通常兵器を大量に投入することでは、後者の方が費用対効果にすぐれ、合理的であるように思われる。そこにこそ本当の戦争の狂気と残虐性があると私は思うのであるが、Zではむしろ、特殊な能力を持ってしまったがための悲劇に焦点が置かれているようである。そのため、登場人物はおしなべてどこか「フツー」でない変わった人物ばかりで、フツーでない人たちの異常な話になりすぎた観がある。逆にいえば、そこがマニア受けするところでもあろう。

放映後の反響とその後の展開

 ガンプラの大ブームが下火になって、世の中は次なるガンダムを求めていた。スポンサーであるバンダイは、タカラから出て好評を得た変形合体ロボット「トランスフォーマー」を圧倒する作品を欲していた。それがZガンダム誕生の背景である。続編はあり得ないとされていたガンダムの続編登場はファンの間でも賛否両論があったが、商業的には成功を収め、バンダイのさらなる要求に応える形でガンダムZZの制作が決定された。
 この一連の流れで、「ガンダムとは、ある日突然(盗んだ)ガンダムで思わぬ戦果を上げた少年がそのまま戦争に巻き込まれ、敵の女と愛し合って苦悩する話」というパターンが決定づけられた。

レビュー

 Zガンダムについて書くのは、ファースト世代の私にとって少々気が滅入る作業である。ファーストガンダムの後まったくアニメの世界から離れてしまった私には、Z放映当時の時代の空気や興奮がわからないということがひとつ。そして、どうしてもファーストとの比較で見てしまうということがある。
 しかも、このZガンダムという作品は、ファーストと比較して対極に位置づけられるよう意図されたかのような作り方をされているのである。ファーストを最良とするなら、Zは「いま一歩」ではなく「最悪」に位置する作品なのだ。つまり、ファーストで築いた世界観を破壊すること、それがZのテーマであったといえよう。
 しかし、私の最大の疑問はこれである。
 何の予備知識もなくZを見て、このストーリーを理解できるのだろうか?
 正直言って、私はこのサイトで各話あらすじの紹介もしているので(未完成)、ビデオを見ながら話の流れを書き取るというオタクな作業もしているのだが、そこまでしても、Zで語られる戦争の流れがイマイチ、わからない。コロニー落としを画策したり、毒ガスでコロニー住民を虐殺しなければならないような切羽詰まった戦況にあるようには、とても思えないのである。どの話を見ても、偶然出てきた敵とのつばぜり合いに終始していて、大きな戦局の流れがつかめずにあたふたしてしまうのだ。
 だから、「この作品は結局、“もっとガンダムが見たい!”という声に応えるために、マニア受けするような設定、シチュエーション、戦闘、会話・・・を並べただけのお話しなんだな」とどうしても勘ぐってしまうのである。
 私は「続編・パート2モノは、1作目を越えられない」という持論の持ち主で、「エイリアン」「ターミネーター」など、どれもやっぱり1作目が一番面白いと思ってしまうのだが、ガンダムに関しても同じであった。例外は「スターウォーズ」であるが、あれは企画当初からシリーズ物として構想されていたから、続編・パート2とは違うと思っている。
 願わくば、「スターウォーズ」のような壮大なスペースオペラへの発展を期待したかったのであるが、リアル志向の近未来SFでそれだけの広がりを持たせることは難しかったように思う。いずれにせよ、終わった話を無理矢理つぎたして作った感は否めないのであった。

 戦争の型として見るならば、ファーストガンダムは第二次世界大戦をモデルにした戦争であった。デギン・ザビ公王がジオン軍総帥のギレン・ザビを「ヒットラーの尻尾」と呼んでいることからも、そのことが伺える。
これに対してZガンダムは、あえてモデルをあげるとすれば、ヴェトナム戦争であったといえよう。
 ヴェトナム戦争は、まず第一に民主主義VS共産主義というイデオロギーの戦いであった。第二に、南ヴェトナム軍VS南ヴェトナム解放戦線(ヴェトコン)+北ヴェトナム軍という、内部抗争であった。また、米国の政治・軍事介入、そしてソビエト連邦の後方支援にみられる、冷戦時代における代理戦争という側面があった。
 これを無理矢理Zにあてはめてみるなら、南ヴェトナム軍=地球連邦軍、南ヴェトナム解放戦線+北ヴェトナム軍=エゥーゴ+カラバ、米国=ティターンズ、ソビエト連邦=アナハイム・エレクトロニクス・・・という勢力図ができあがる。(あ・・・アクシズがない・・・中国にしとくか/汗)
 このように、Zガンダムを「イデオロギー対立による内部抗争」による戦争とするなら、まず、過去の戦争から学ぶべきことがあったように思う。実際、この戦争では、Zガンダムで主人公側となるエゥーゴ+カラバにあたる南ヴェトナム解放戦線(ヴェトコン)+北ヴェトナム軍は、米軍の10分の1以下の戦力しかないにもかかわらず、15年も戦争したあげくに勝利してしまうのだから、戦力比で結果的にはまっとうに地球連邦軍が勝利した前作を「ひっくりかえす」意味で、非常によいモデルになっただろうと思われる。
 しかし、残念ながら、Zガンダムはこのように前作とは全く異なった対立構造を持つ戦争を描いているにもかかわらず、ストーリーの流れは前作を踏襲したものとなっている。ここに、ストーリーの「つまらなさ」「わかりにくさ」の原因があるように思う。
 映画で第二次世界大戦の描かれ方と、ヴェトナム戦争の描かれ方を見ると、この戦争の違いがよく分かる。第二次世界大戦は、大きな戦局の流れのなかで一つの作戦を取り上げて描くといった作品が多いように思うが(「史上最大の作戦」「トラ、トラ、トラ」「プライベート・ライアン」など)、ヴェトナム戦争はそうではない。なぜなら、この戦争には戦局の大きな流れがないのが特徴だからである。ヴェトナム戦争の代表作「プラトーン」や「フルメタル・ジャケット」「地獄の黙示録」に見られるように、ヴェトナム戦争では戦争の残虐性、葛藤、人間性の喪失、狂気・・・といったものだけが全面に押し出され、ほとんどストーリーがない映画になっている。このあたり、Zに共通するものがありそうだが、意識してそのように作り上げるのと、結果的にそうなってしまったのとでは、作品の価値が違ってくるのは当たり前である。
 ならば最初から、徹底してそんなストーリー作りに挑戦してみてほしかった・・・と正直思うのである。

 問題は、ここなのである。
 Zガンダムには、ファーストガンダムのような「挑戦」がない。あるとすれば「プラモデルの売り上げアップ!」ぐらいのものではないか。それを、あたかもさらに上を目指しているごとく、やたら複雑な対立構造や入り組んだ人間関係を作ったり、わけのわからない用語や地名を何の説明もなく並べるなどして、いかにも子どもを相手にしていないかのような雰囲気を醸し出そうとしているところに、私は胡散臭さを見てしまう。言うなれば「アニメ雑誌をチェックし、こまめにビデオ録画して何度も熱心に視聴し、どうでもいい細部ばかりに拘ろうとするアニメオタク」の欲求を満たすために作った、スポンサーとオタクの自己満足作品であろう。
 それだけに、逆にもし放映当時、私がまだアニメ雑誌を買いそろえるオタクを続けていたのなら、根がオタクな私としては熱狂的にこれを受け入れて、こういう低い評価を与えることはなかったであろう。
 さて、ではZガンダムではどのように前作の世界観を破壊したかであるが、このことについては、もはや目新しいテーマではないので、ここでくだくだと論じるのはやめにしておこう。こちらなどが参考になるのではないだろうか。

 私がもし続編として考えるなら、主人公はエマ。彼女が連邦軍(ティターンズ)からシャアの側(エゥーゴ)へ寝返ることで、1年戦争と敵味方が逆転することになる。これが1つのポイント。
 そしてそのことをさらに印象づけるため、アムロとブライトはもし出すとしても、主人公の敵側、つまり連邦軍(ティターンズ)として出す。その方が、強化人間みたいな陰惨な設定をするよりよっぽど衝撃的かと思う。
 あるいは敵となる地球連邦軍については攻撃してくる敵MS・艦艇としてだけ描いて内部のドラマは一切出さず、エゥーゴ+カラバの組織内の戦いの中で起こるさまざまな葛藤、苦悩、人間関係などを描く。それだけで十分ドラマになったのではないかと思う。戦闘としては、内部抗争だけにもっと「ゲリラ戦」を意識した戦闘形式を考えたMSというように、前作とは違ったコンセプトを出してほしかった。(恐らく商業的には「変形」が求められていたということはよく理解しているので、物語的に変形する必然性を戦闘形式の変化から示してほしかった)。ゲリラ戦というのは戦争の中でも最も陰惨な部類に属するので、Zが目指していたであろう陰惨な結末には苦労せずともたどりつくし、キャラクターが次々死んでいくのもまったく不自然には感じられないであろう。
 これを読んで、「制作者が描きたかったのは、戦争そのものではなくて“人間の現実”なんだ」という方がいらっしゃるかもしれないが、私はそうした主張に組みしない。人間の現実を作り出すのは、背後にある世界の現実である。だから、背後になる世界の現実としての戦争をしっかり物語の中で組み立てることで、戦争を戦い始めたキャラクターはその現実に従って勝手に動いていくことになるだろう。しかしZを見ていると、キャラクターが無理矢理動かされているぎくしゃく感があって(例えばレコアがシロッコに惹かれたり、その結果裏切ったり・・・、ファがMSのパイロットになったり・・・存在価値不明のクムとシンタ、なんでカツをそうまでして宇宙に連れていくの??などなど)見るたびに鬱になるのだ。

 そんなZの正しい見方は「つっこみを入れつつ見る」ことだと私は思う。そうでもしなければ、最終回で精神崩壊してしまうであろう。

 最後に、Zガンダムのファンの間で最も物議を醸したという「オーラ&幽霊召還攻撃」について考察してみることにする。
 これは、物語の終盤、ニュータイプとして尋常ならざる精神力を発揮する主人公のカミーユが、その敵のシロッコ、ハマーンなどと死闘を演じるとき、彼らがMSからオーラのような光をめらめらと燃え上がらせ、すでに戦死した仲間の「霊」が登場して戦いに加勢するという場面のことをいう。
 善意に解釈すれば、これは戦闘に全神経を集中させ、無き戦友たちの無念に思いをはせて戦意を高めていることの漫画的な表現ということができる。しかし、ファンの間でこのシーンが物議を醸すということは、これがそのように善意には解釈されたなったということである。それはなぜか、ということについて考えてみたい。

 ガンダムの世界では、宇宙に出たことによって新しい能力を得た「ニュータイプ」という人々が登場する。非常に勘が良く、洞察力にすぐれ、人の思念を読みとることができるといった特徴がある。
 そして、人類がこのような能力を得て意識改革をすれば、すばらしい世界がおとずれるのではないか・・・というところに、このシリーズの「希望」があるのである。
 こうしたアイデアは、実はガンダムのオリジナルではない。恐らく、ファーストガンダムに多大なる影響を与えた映画「スターウォーズ」にヒントがあるのではないかと思う。武器・装備的に、ガンダム世界に登場する「ビームサーベル」が「スターウォーズ」の「ライトセイバー」からヒントを得ているのは有名だが、もう一つのヒントが「ニュータイプ」に活かされていると思うのだ。それは、「スターウォーズ」で登場する「フォース」である。これはジェダイの騎士が会得する特別な能力といわれている。
 この二つに共通する、人間の意識の開発と拡大によって、新しい能力を得るというアイデアは、非常にSFっぽい雰囲気を醸し出しているのであるが、実はこれはSFではなく“宗教・思想”のジャンルから出ているアイデアなのである。

 ニューエイジという言葉を耳にしたことがあるだろうか。これは、宗教団体として存在しているのではなく、宗教、医学、哲学、教育、芸術、環境問題や人権問題などあらゆる分野に浸透している思想である。無宗教であるという多くの人が、実は知らず知らずのうちに感化されて持っている宗教観ということができる。
 それは、人間はみな善い存在であり、潜在能力を開発することで神のようになれるという考え方である。
 書店で「宗教・思想・哲学」のコーナーを見てみると、「スピリチュアルなんとか」とか「なんとかヒーリング」とか「チャネリング」「超越瞑想法」「前世療法」などちいった怪しげなタイトルの書籍がずらりと並んでいる。これらがニューエイジといわれるものである。環境問題としては、EMボカシというのが有名であろう。オウム真理教や幸福の科学、クローン人間で物議をかもす「ラエリアン・ムーブメント」といった新興宗教や、ベストセラーとなった「脳内革命」もこのニューエイジ・ムーブメントの中から生まれてきたものである。
 これらに共通する考え方が、「人間は潜在能力を開発することで神のようになれる」であり、それが「スターウォーズ」の「フォース」、ガンダムの「ニュータイプ」の発想のベースになっているのである。
 このニューエイジの潮流は、西洋合理主義と東洋神秘思想の融合という形で、1970年代のアメリカに始まった。これを一躍若者に広めたのが、かのビートルズ(とりわけジョン・レノン)である。彼らはメンバーそろってインドで瞑想したりしたわけである。こうした流れが70年代にピッピー文化という形で結実した。(逆シャアで、クェス・パラヤがニュータイプになるべく「インドで修行」しているのは、まさにこのことから来ていると思われる)
 その後、80年代から90年代にかけて、「自己啓発セミナー」「セラピー」「癒し」「ヒーリング」といった内面を扱う実践的手法で広く一般に浸透していくのだが、そこに共通するのが「自己の意識改革」・・・つまり「フォース」や「ニュータイプ」と同じ考え方なのである。そして奇しくもZガンダムが制作された80年代は、日本では「宗教の時代」といわれるほど珍奇な新興宗教が乱立した時代であった。

 Zガンダムの物語の終盤で、死んだフォウの意識がカミーユとともにあったり、思念の力によってMSからオーラを発したり、また死者の霊が共闘したりというのが批判を受けたのは、文字通りそれが「あまりにオカルト的」と思われたからであるが、オカルト=神秘的・超自然的な事であることを考えれば、「ニュータイプ」そのものが実はオカルト的であるのだから、ニュータイプについてつきつめていけばこういったオカルト的表現が作品上に現れてくるのはむしろ当然なのである。
 しかし、そこに嫌悪を感じる人は、ある意味健全な精神を持っているということもできる。
 なぜなら、ニューエイジャーが考えているように「人間は潜在能力を開発することで神のようになれる」ことは、絶対にないからである。(その意味で、人がニュータイプになることは決してない)
 では現に、霊の力を感じたり、予知能力があったり、触れただけで病気を治したりといった常識では考えられないような不思議な業を見せる人がこの世にも存在するのは、どういうわけなのだろうか。それは、やっている本人は「自分の能力」と思っているが、実はそうではなく、そのような超常的な能力を人に与える霊的な存在があるということである。
 それを、人は「悪魔」というのだ。
 Z終盤の「オーラ&幽霊召還攻撃」がオカルト的に感じられるのは、こういう力「自己の意識改革」「潜在能力の開発」の背後に潜んでいることを、見る者が無意識に感じるからであろう。

 では、人は分かり合うことはできないのであろうか。
 それに対する私の応えは、「できる」である。しかし、自力ではなく他力で。その方法は一つしかない。

 最後に、以上の話の流れから、シャアの「人を宇宙に上げて意識改革させる」という目論見がなぜ挫折したかを考えてみよう。一言でいうなら、それは、シャアが「神の領域に踏み込んだ」からである。シャアはネオ・ジオンの総帥となり、自ら神のような立場にたって人類を粛清しようとした。しかし、このシャアの主張は、アムロの前に「エゴだよ、それは」の一言で片づけられてしまう。まったくもって、まっとうな考えといえよう。
 「逆襲のシャア」で、シャアは軍人としても政治的指導者としても頂点に立つ人間になっていたが、対するアムロは生涯一パイロットである。なのにどうして、アムロは強くシャアは弱いのか。それは、アムロが「自力でニュータイプになったのではない」という意識を強くもっていたこと、そして神の領域に踏み込まなかったことがあると私は考えている。
 神は、シャアのように自力で強くあろうとするものではなく、アムロのように自分の弱さと無力さを自覚している者を用いられる。カミーユは、不幸な人々を救いたいというすばらしい意志を持っていたが、それを自分の力で成し遂げられると思ったところに罠があった。
 Zガンダムは人の能力の限界と、人が人を救うことはできないという現実をシニカルに描ききったという意味においてのみ、大きな価値を持つ作品であるといえよう。 (2003.2.28)

評点 ★★


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