■新機動戦記ガンダムW
1995年4月7日〜1996年3月29日 TV放映 全49話 原作■矢立肇/富野由悠季 監督■池田成 シリーズ構成■隈沢克之 キャラクターデザイン■村瀬修功 メカニカルデザイン■ 大河原邦男/カトキハジメ/石垣純哉 美術■竹田悠介/佐藤勝 音楽■大谷幸 |
スト−リ−
AC(アフターコロニー)195年、地球の周囲に浮かぶスペースコロニーは、地球圏統一連合の軍事制圧下にあった。連合に反目する一部のコロニー居住者は軍事的抵抗を企て、流星に偽装した新型兵器を地球に降下させた。しかし、「オペレーション・メテオ」と名付けられたこの作戦は、すでに連合側に察知されていた。衛星軌道上の監視衛星の報告を受け、攻撃輸送機上にいたOZの上級特尉ゼクス・マーキスは、地球への落下コースをたどる5つの金属物体のうちの一つをとらえ、迎撃体制に入った。
なぞの飛行物体を操るのは、少年である。進行軌道上に障害物があるのを確認すると、ひとりつぶやいた。「民間シャトルか…」
そのシャトルには、連合のドーリアン外務次官と娘のリリーナが搭乗していた。
飛行物体の外装の下には、新型の戦闘機が隠されていた。ゼクス・マーキスは自らリーオーに乗って出撃し、この新型戦闘機を迎え撃った。あっけなく爆発する戦闘機。しかし、それは目くらましにすぎなかった。大気圏突入後、その戦闘機はモビルスーツに変形。迎撃するOZのエアリーズ2機をたった一撃で撃墜すると、コクピットの少年は不気味に高笑いした。これに闘志をかきたてられたゼクスは、このモビルスーツ「ウイングガンダム」に急接近しリーオーの機体をぶつけてホールド。自らは脱出してそのままモビルスーツを海底へと撃沈させた。
その日の夕方、日本島の宇宙港に着陸したシャトルを降りたドーリアン外務次官と別れ、一人夕暮れ時の海岸を歩いていたリリーナは、波打ち際に倒れる人影を発見する。かけよって見ると、その人物は戦闘服らしきものを身につけていた。救急車を呼び、パイロットのヘルメットを外すリリーナ。兵士はまだ少年であった。そのとき彼は気が付いて、素早く立ち上がると腕で素顔を隠そうとした。救急車のサイレン音が近づくと、少年は胸のスイッチを押して自爆しようとするが失敗。かけつけた救急隊員に殴りかかると、救急車を奪って逃走する。
遠ざかるサイレン音を聞きながら、リリーナはふとつぶやいた。「私は…私はリリーナ・ドーリアン。あなたは…?」
コロニー反乱者による「オペレーション・メテオ」によって地球に降下した他の4機のガンダムにより、各地でOZの部隊が襲撃され、大打撃をうけていた。
そして数日後、聖ガブリエル学園に登校したリリーナの前に、襲撃の日、彼女が海岸で助けようとしたあの少年、ヒイロ・ユイが転校生として姿を現わす。彼とも親しくなろうと、誕生日パーティの招待状を手渡すリリーナ。しかし彼はその手紙を容赦なく破り捨てると、リリーナの浮かべた涙をそっとぬぐってささやいた。「おまえを…殺す」と-----。
物語の背景
1994年に放映された「機動武闘伝Gガンダム」に続く、非富野ガンダム第2弾。いわゆる「宇宙世紀」シリーズとは別の世界が構築されており、単独作品として楽しむことができます。主人公は、ここで解説する必要もない大人気アイドル、SMAPにヒントを得た美少年5人組で、先にサンライズが発表した「鎧伝サムライ・トルーパー」によって開拓された女性ファンを広くガンダム世界に取り込むことを狙って製作した、相当に「あざとい」作品といえます。しかし、地球に降下して戦いをいどむ5機のガンダム、という第一話は、Gガンダムのイメージを継承しているようでもあります。複数のガンダムが登場するというストーリーは「機動戦士ガンダム0083」ではじめて試みられたそうですが、ここでは主役級ガンダムが5機という贅沢なつくりになっています。しかし物語の後半にさしかかるまで、5機のガンダムがチームとして結集することはほとんどなく、少々散漫な印象が否めません。一方で、ガンダムを「動かす」組織がいわゆる軍隊でなく、テロリスト的な単独行動であること、さらにこれまでとうってかわって高度な訓練を受け、超人的な能力をもつダーティ・ヒーロー的な主人公、ヒイロ・ユイの存在感などは新鮮で、ちょっとした衝撃でもあります。それ以上に、深く突っ込んでみたくなるような背景は、正直いって、ないなあ。
レビュー
う〜ん。これははっきり言って、評価の難しい作品です。好き嫌いのはっきりわかれるガンダムといえるでしょう。(特に見る人が男性か女性かによって、左右されるでしょう)
「物語の背景」でも少しふれましたが、これは、明らかに特定視聴者層の掘り起こしを狙ったマーケティング「商品」です。他のテレビ作品を差し置いていち早くDVD化されていることからも、この「商品」の人気のほどが伺えます。
こんなふうに書くと悪口っぽいですが、私はけっこう好きです。それは、この作品そのものが、「もしもガンダムが〜だったら?」というような空想や妄想を形にした、一種のパロディになっているからです。平成のシャアともいうべきゼクス・マーキスなどは、その際たる存在といえましょう。
特に際立っているのが主人公の5人の美少年と、彼らに運命を翻弄(?)される少女リリーナ・ドーリアンです。画面に登場するやいなや、主人公なんてことにお構いなく、反則と思えるほど異様に強いガンダムで悪逆の限りを尽くす彼らのやり口には、意表をつかれっぱなし。さらに常人には推し量りがたい並外れた言動に度肝を抜かれ、いったんビデオを見始めたらい、いつしか、このキャラクターたち(ガンダムでない)の行動から目を離せなくなっている自分に気づくはずです。
こんなわけですから、ストーリー展開もやがて、キャラクターを立たせ、動かすためだけのものになっていきます。物語としての必然性というか、目標というものが見えなくなってくるのです。ですから全編見通してしまった後でも、いったい誰と誰が何のために戦ったのか、ということさえ、説明しがたい状況に陥ります。キャラクターが立ちすぎて、ストーリーが破綻してしまったといってもよいでしょう。
幼いころから高度な訓練を受け、人間性を封印して、命令通りに任務を遂行する完璧な「兵士」として育てられた主人公ヒイロ・ユイが、偶然出会った少女リリーナ・ドーリアンと関わりあうことで、堅く心の奥底に閉ざされた人としての「優しさ」に目覚めてゆく---というドラマ展開には、ガンダム・シリーズとしてのテーマ性を含んでいると思うのですが、作り上げられたキャラクターそれぞれがあまりに個性的であるために、作る側も見る側もそちらの方に気を奪われて、ドラマとしての「核」の部分はどうでもよくなってしまったような感があります。
そうこうしているうちに、同年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」に時代の潮流をさらわれてしまいました。どうも、ガンダムシリーズ全体を見ると、90年代以降、作品としてのパワーが落ちているように思います。初期に見られた視聴者の心の穴を埋める主人公像とストーリーづくりから、「受ける」作品づくりへと制作者の姿勢が変節してしまったがために、作り手・受け手の双方が少々ワルノリに走ってしまい、その虚を「エヴァ」に突かれてしまった、というのが私の見方です。ヒイロ・ユイはアムロやカミーユと同様に、今の少年たちが持つある種の問題性を内に秘めた稀有なキャラクターだと思いますし、もう少し彼の内面の変化を徹底して描けば「エヴァ」の独走を許すこともなかったと思うのですが。(しかし「商品」としてはこれほど成功しなかったかもしれない。ここが売れ筋になってしまった作品の難しいところですよね)