■機動戦士ガンダム 逆襲のシャア
MOBILE SUIT GUNDAM Char's Counterattack
劇場公開1988年3月12日 原作・脚本・監督■富野由悠季 音楽■三枝成彰 主題歌■TMネットワーク 「BEYOND THE TIME」 キャラクターデザイン■北爪宏幸 モビルスーツデザイン■出渕裕 メカニカルデザイン■ ガイナックス・佐山善則 |
スト−リ−
月面都市フォン・ブラウン市にあるアナハイム・エレクトロニクス社で、新型モビルスーツ「νガンダム」が最終テストと実戦装備を待っていた。ネオ・ジオンの総帥シャア・アズナブルが地球上に隕石を落として「核の冬」を現出させようと、作戦行動を開始したのだ。これを阻止すべくブライト・ノア率いるロンド・ベル隊が出動するが失敗、5th・ルナの落下を許してしまう。
その頃地上では、シャアの隕石落下作戦を知って、その害から逃れようとする人がいた。連邦政府高官のアデナウアー・パラヤである。彼は愛人と娘のクェス・パラヤを連れて、地球から出る最後の便に割り込んだ。そのために、その船に乗ろうとしていた母子3人の席を奪ってしまう。しかし愛人はクェスと仲が悪く「こんな娘といるくらいなら地球で凍え死んだほうがまし」といってその場を去るため、1つ座席に空きができた。アデナウアーは、空港カウンターの男に、母子3人のうち一人にその座席をゆずるようにいう。そうして彼、ブライト・ノアの息子ハサウェイは母ミライ、妹チューミンと離れてひとり、宇宙へ旅立つことになる。
彼らの乗ったシャトルは折悪しく宇宙に出たところでアポジモーターが故障、戦場を突っ切る形になってしまう。すんでのところでネオ・ジオンの軍勢は後退し、シャトルの乗客はロンド・ベル隊の旗艦ラー・カイラムに救助され、そのままロンド・ベル隊の基地のあるコロニー・ロンデニオンに向かう。しかしこの裏には政府高官アデナウアー・パラヤの陰謀があった。
一方ラー・カイラムに移されたクェスとハサウェイはモビルスーツのシミュレーションをさせてもらったりして、初めての宇宙に大はしゃぎである。地球にいるとき、インドでニュータイプの修行をしていたというクェスはニュータイプ戦士として名高いアムロ・レイ大尉と出会って心惹かれるものを感じるが、彼のそばにチェーン・アギという女性士官がいるのを知って失望する。
ロンデニオンに着いたハサウェイは、アムロに初めてのスペース・コロニーを案内してもらうことになる。親しくなった少女クェスも一緒だった。湖畔をドライブする彼らの前に、2羽の白鳥が飛び立った。「あの白鳥を追いかけて、アムロ!」クェスの声に車を走らせるアムロ。そこにはネオ・ジオン全軍の指揮をとっているはずのシャア・アズナブルがいた。「なんでおまえがここにいるんだ!」叫びとともにシャアにつかみかかるアムロ。しかし彼に向けた銃口は、少女クェスにはらわれる。「来るかい?」突如アムロに銃をつきつけたクェスに、シャア・アズナブルはささやきかけた-----。
物語の背景
本作品は「シャアとアムロ、最後の対決」と銘打って制作された劇場映画です。年代的には「機動戦士ガンダム」の続編である「機動戦士Zガンダム」「機動戦士ZZガンダム」の後に位置づけられますが、何よりも一本の映画として楽しめることに主眼をおいて制作されており、あらかじめ続編を見て流れを知っておく必要はありません。しかし、やはり作品としては「機動戦士ガンダム」の流れをくむことは否めませんし、何よりもこの映画をより一層楽しむためにはアムロ、シャアというふたりのキャラクターとその「因縁」を知っておかねばならないでしょう。そのために、やはり第一作である「機動戦士ガンダム」の物語には何らかの形で接しておきたいところです。
この映画の中では、シャアとアムロの最後の対決となる新たな戦争が起こっています。シャア・アズナブルは新生ネオ・ジオンを建国し、愚かな地球市民を抹殺するために、地球に隕石を落として「核の冬」状態を現出させることを思い立ちます。そのような状況を自ら作り出すことで無理矢理にでも人類を宇宙に引き上げ、全人類のニュータイプへの覚醒を促そうというのです。シャアは劇中「人類全体をニュータイプにするためには、だれかが人類の業を背負わなければならない」と自らの言葉でこの行為を説明しています。「業」というのは、辞書では「未来に善悪の報いをもたらす行為。特に現在の災いの原因をなす過去の悪行」と解説される仏教用語です。私は仏教徒ではないので、このような言葉遣いや考え方に馴染めないものがあるのですが、いわんとすることは理解できるつもりです。つまり人類がこれまでに積み重ねてきた、地球を汚し破壊するという「罪」を自分の手で再現することによって、その「罪」を自分がかぶり人々を救うということでしょう。自ら救世主に名乗りを上げているというわけです。
実に、彼の言い分に耳を傾けていると、死を賭しても人々をニュータイプに覚醒させんとする決意に心動かされ、シャア・アズナブルという人物にますます心酔してしまいそうです。しかし実際には、この映画での彼の姿勢は往年のシャア・アズナブル・ファンを大いに失望させるものでした。(この彼が一番!という方、ごめんなさい)それは、彼の論理が非常に日本人にとってとても腹立たしい歴史を思い出させるからではないか、と私は考えています。地上に暮らす多くの人を虐殺してでも世界を救いたいという考え方は、ヒロシマとナガサキに原爆を投下するにあたってアメリカ政府がいったこととそっくり同じだからです。(また、この映画が公開された時には予測もつかなかったことですが、1995年にはこれをそっくりまねたような事件が東京で起こりました。といっても隕石が落ちてきたのではなく、サリンが撒かれたのですが)
この映画のメインは「シャアとアムロの対決」で、物語が佳境を迎える最終決戦に入ると、手に汗にぎるシーンの連続です。しかし上記のような理由から、ここではふたりの戦士のぶつかりあいというよりは、「アムロ・レイのヒロイズム」が全面に押し出されているように感じます。そういった意味で、この作品は一連のガンダム・シリーズの中でも異色作といえるでしょう。
レビュー
この物語の主役はまぎれもなくアムロ・レイとシャア・アズナブルなわけですが、この二人はすでに出来上がったキャラクター(・・・つまり、ちゃんとした大人、というほどの意味です(^_^;)として登場しているのが、他の作品と毛色の異なるところです。しかし、ガンダム主人公の「掟」にぴったりはまった登場人物が作中に現れます。この人物が、このストーリーの真の主役といってもいいのではないでしょうか。それは、クェス・パラヤその人です。彼女は連邦政府高官の父をもつエリート階級の娘ですが、愛人を囲い、また自らの地位を利用して真っ先に地球から逃げ出そうとする卑怯な態度に心底失望しており、父親を軽蔑しています。そうした父性なき父への怒りを戦争にぶつける、というのがガンダム世界の定説ですから(^_^;)、ここでは本来なら、クェスがνガンダムのパイロットになるべきところでした。ところが、アムロがいるわけです。クェスは何ていうか、かなり性格の破綻した感じの娘なのですが、アムロを押しのけてガンダムのパイロットになるというほどのごり押しはしない(当たり前か(^_^;)。一目見てアムロに好感をもち、恋人のチェーンにくってかかったりしていますが、結局彼女は自分がアムロ・レイの心に入り込む隙がないことをニュータイプならではの鋭い感性で感じ取り、父なる存在を求めてシャア・アズナブルの元へと走るわけです。彼女のニュータイプ能力を高く評価したシャアは、甘えるクェスをテキトーにあやしながら、ニュータイプ戦士として利用し、戦場に立たせます。そうして彼女は、悲劇的な運命をたどることになるのです。
この作品は、アムロ・レイの命を賭けた行為によって奇跡的な結末を迎える、感動的なストーリーです。にもかかわらず、一方でクェス・パラヤという天衣無縫な少女が多くの人を巻き込んで、同時進行的に悲劇的な死をとげるため、見終わったあと、結末に感動はするが、全体としてはかなり陰惨な印象を否めないという、非常に複雑な感情におそわれます。もう一方の主人公であるクェス・パラヤの運命が、そうさせているのです。アムロに阻まれ、シャアに利用された彼女の存在とその行く末は、原作者の、いつまでもガンダムにこだわりつづけるファンへの嫌味か?などというのは穿ちすぎでしょうか。このクェス・パラヤ問題(と今私が勝手に名付けてみた)については、こちらでもう少し私なりの追究をしています。
最後に特筆しておきたいのが、音楽のすばらしさです。「Z」「ZZ」に引き続き、三枝成章氏が担当していますが、音楽の旋律に美しいストーリーがあって、曲だけ聞いていてもなんだか感動してしまいます。エピック・ソニーからオリジナル・サウンドトラックが出ています。ジャケットは加藤直之氏によるイラスト。これもまた、イカす感じで、グー。(←死語(^_^;) (2000.7.03)
評点 ★★★