■機動戦士ガンダム0083 スターダストメモリー
MOBILE SUIT GUNDAM 0083 Stardust Memory
1991年〜1992年にOVAにて販売 原作■富野由悠季 監督■加藤充子/今西隆志 キャラクターデザイン・総作画監督■ 川元利浩 モビルスーツ原案■大河原邦男 メカニカルスタイリング■河森正治 メカニカルデザイン■ カトキハジメ/明貴美加/石津泰志 美術■東潤一 音楽■萩田光男 |
スト−リ−
一年戦争が終結して3年後の宇宙世紀0083。士官学校を卒業したばかりの新米パイロット、コウ・ウラキはオーストラリアの連邦軍トリントン基地に配属され、モビルスーツでの実戦訓練に明け暮れていた。彼の所属するアルビオンには連邦軍の新型モビルスーツ、ガンダム試作1号機・2号機があり、アナハイム・エレクトロニクスのエンジニア、ニナ・パープルトンを中心に、テスト段階に入ろうとしていた。コウが何とかこのガンダムのテスト・パイロットの座をつかもうとしていた矢先、2機のガンダムのうち1体が、連邦軍将校に扮したジオンの残党、アナベル・ガトー少佐に強奪されてしまう。その場に居合わせたコウは、このチャンスをものにしようと、メカニックらの制止をふりきってガンダム1号機に搭乗、ガトーを阻止しようと奮戦するが、まるで相手にされないまま取り逃がしてしまう。
ジオン残党らの目的もわからないまま、奪われたガンダム2号機を奪還しようと、アルビオンはトリントン基地を出立して、彼らが潜むアフリカの秘密基地へと向かうが、そこではガトーらが、ガンダム2号機を宇宙へ持ち帰るため、シャトル発射の準備をしているところだった。その先には、ジオン再興を企む「デラーズ・フリート」の恐るべき作戦「星の屑」が待ち受けていた-----。
物語の背景
第1作目「機動戦士ガンダム」から2作目の「機動戦士Zガンダム」の間に横たわる<ミッシング・リンク>を埋める作品として作られたのが、本編「機動戦士ガンダム0083スターダストメモリー」です。ジオン再興を目指して決起した「デラーズ・フリート」と地球連邦軍でガンダム開発計画に関わっていたコーウェン少将麾下の艦艇「アルビオン」との、死力を尽くした対決を通して、Z時代に地球圏を席巻することとなる地球連邦軍の治安部隊ティターンズの結成に至る経緯を描いています。
こうした背景を見てもわかるとおり、本編はガンダムのインサイド・ストーリー的要素が非常に強く、内容的には必ずしも初心者にやさしくないストーリーといえるでしょう。やはり、ファースト、Zを見てからご覧になった方が、より楽しめるといえそうです。
とはいえ、実際の物語は必ずしも難しいものではなく、むしろこれまでのガンダムが「なぜ戦わなければならないのか」「人は変わっていくことができるか」といった主人公たちの心理的な葛藤をベースにした人間ドラマを基調としていたのに対して、「ガンダムVSガンダム」という、これまでになかったシチュエーションでのモビルスーツ同士の対決を軸に展開する、戦争映画的エンターテイメント大作になっており、スピード感あふれる迫力満点の戦闘シーンを堪能することができます。
敵主力となるデラーズ・フリートとは、ジオンの残党、エギーユ・デラーズが率いる艦隊で、「われわれは3年待ったのだ!!!」とことあるごとにおっしゃっていますが、どこでこれだけの戦力を温存していたのか、一度見ただけではわかりませんでした。何回見てもわからないかも知れませんが(汗)。終戦直後に脱出して逃げ延びたというアクシズの方々とは別に動いていたようで、本編で彼らが実行する「星の屑作戦」成就後にアクシズ先遣艦隊と合流する予定だったが、シーマ・ガラハウの寝返り、その他もろもろのさまざまな背徳行為が積み重なった結果、それは果たせないまま、コロニーを地球に落としたものの、自軍艦隊も壊滅してしまい、結局、この事件を教訓に地球連邦軍が軍備の強化を図るという「寝た子を起こす」結果に終わってしまいました。その4年後にZの時代を迎える・・・ということになるわけです。
それはさておき、物語のメインとなるのはやはり、連邦軍の新米パイロット、コウ・ウラキと、一年戦争時には「ソロモンの悪夢」と恐れられたジオンのエース、アナベル・ガトーとの息詰まるような対決でしょう。この二人はぜんぜんニュータイプではないので、敵が「見える!」なんてことは全然なく、矢折れ弾尽きるまで、いやそうなっても肉弾戦に持ち込んで、存分にぶつかりあって格闘してくださいます。
特に前半から中盤までの「ガンダムVSガンダム」というシチュエーションは大変好評で人気を博したことから、のちに「ガンダムだらけのガンダム対決」であるGガンダムが生まれることになった・・・という話を聞いたことがあります。それがウソか真かは分かりませんが、いわれてみればニナ・パープルトンとレイン・ミカムラとか、アナハイムの妙にきゃぴきゃぴした女性社員たちとチボデー・ギャルズとか、似ている部分があったりして(笑)
しかし、・・・エンターテイメントといえば娯楽作品、のはずなのに、全編見終わったあとの、このほろ苦い後味は一体何なのでしょう。その背後には、暗くて深い闇が横たわっているような気がします。
レビュー
さて、この作品を見られた方の感想などを見ていると、大きく二つに分かれるようです。ひとつは「おもしろかった」、そしてもうひとつは「----さむ〜」。私はというと、どっちの気持ちもわかります。「おもしろかった」という人は物語の過程を楽しんでいっているのでしょうし、「----さむ〜」という人は、物語の結末のことをいったのでしょう。「おもしろうて、やがて悲しき星の屑」というところでしょうか。
<おもしろい点>
まず本編が何よりもモビルスーツ同士のリアルで迫力ある戦い、というガンダムならではの醍醐味をストーリーの主眼におき、存分に描き切っていることが一番にあげられます。一年戦争終結後から、0087年のグリプス戦役勃発までの「空白」を埋めるという制約がある中、これを逆手にとって、開発中のガンダム2号機を盗んで戦うという奇抜な作戦を企て、ガンダム同士の戦いという、ファン待望のシチュエーションを実現しました。
同時に、主人公に新米パイロットを、そして敵に一年戦争時のエースを配し、新人とベテランという「アムロ対シャア」を彷彿とさせるドラマを盛り込んだことも、この物語を大いに盛り上げる結果となりました。「アムロ対シャア」と似て非なるところは、コウ対ガトーがどちらもニュータイプでなく、「ニュータイプ能力」という、パイロットとしての資質とは本来関係のない能力に左右されないことが上げられるでしょう。また機体に大きな性能差があるということもなく、純粋なパイロット対決として楽しむことができます。もちろん、コウは配属間もない新米パイロットだっただけに当初はどうしようもない能力差があるのですが、チームメイト(?)とのシート争い、上官の厳しい特訓とそして死、さらに美人エンジニアとの恋♪などなど、まるでよくあるラブコメまじりのスポ根マンガのような過程を経て一人前のパイロットに成長していくあたり、なかなかツボを押さえた展開といえます。
一方の敵側も、「ソロモンの悪夢」アナベル・ガトーや片腕の戦士ケリィ・レズナー、女海賊まがいのシーマ・ガラハウなど一癖も二癖もある面々をそろえていて豪華絢爛。新米たちの成長という連邦軍側の舞台とは対照的に、こちらは一年戦争敗戦のトラウマを背負った、影を引きずる男女の葛藤が見られて、スペクタクルに流れがちな本編に深い奥行きを与えています。
<---さむ〜と思ったのは・・・>
何といってもニナ・パープルトン。彼女の態度は、一体何なんでしょう。以前にガトーとつきあっていた、という話はわかる。そのガトーとコウが戦うことになってしまう。それを見ている辛さもわかる。つまり、あれだね。「別れても〜ぉ、好きな人〜♪」(←古すぎ) それだったら、それだったらだよ。第1話でガトーが連邦軍の将校になりすましてガンダムの格納庫に現れたとき、気付けよ!!!と思うんです。「きゃ〜、私のガンダムが〜」などと無邪気に叫んでいる場合じゃないでしょう。最後にガトーとコウが生身で対決しようとしたそのとき、ガトーでなくコウに銃口を向けるほど、それほどガトーのことを愛していたなら。私がニナだったら、たとえ着ているものが連邦軍の制服であろうと、つきあっていたときより髪が伸びていようと、その背中や歩き方を見ただけで、そして声を聞いたならなおのこと、すぐにも彼がだれか絶対にわかるはず。そう思わないか? それなのに、そのときはそのことに気付いたふうでもないくせに、あとになって一人でどよよんと落ち込んだりして、まったくどうなってんの?と鼻白む思いに駆られます。
このガトーとニナが「昔つきあっていた」という関係は、ストーリーの進行とともに徐々に明らかになり、主人公コウ・ウラキに最後に大きなショックを与えることになるのですが、この物語の中にあって非常に中途半端のまま放置されています。二人の付き合いがどういうものだったのか、よく分からないのです。ニナと再会したときのガトーの素っ気ない態度(作戦行動のまっただ中だから、ある意味当たり前か)を見ると、ひょっとしてガトーは、ガンダム開発計画の情報を入手するためにニナを利用していただけだった、とも考えられます。だいたいなー、ガンダム盗みに来たのが彼だと分かった時点で「やられた!」と思わないか? 裏切られた女の怒りは、すごいよ。それで、新米のコウを調教して、ガトーをやっつける・・・という、楽しい話になったとおもうけどな(楽しくねーよ)。とにかく、このままではコロニーが地球に落ちて100万単位で人が死ぬ、というときに好きとか嫌いとか、そういう感情でガトーを選んじゃうニナという女にガックリ。どんな過去が二人の間にあったか知らないけどさ、ここはそういうことを克服して、毅然と発砲してしまってほしかったです。っていうか、そういうふうに物語をもっていくなら、そのへんももう少し突っ込んでおくべきじゃなかったでしょうか???
そして、そしてだよ。ガトーをかばってコウに銃口を向けておきながら、最後に、北米オークリー基地に転属になったコウの前にぬけぬけと現れる。ニナ、君の気持ちが見えないよ。そこでうれしそうな顔をするな、コウ(哀)
----と、かようなワケで、なんとも後味のほろ苦いエンターテイメント大作なのでありました。
<そして最後に、「ソロモンの悪夢」が語りかけるモノ>
「ソロモンよ、私は還ってきた」-----咆哮とともに、ガンダム2号機の核弾頭をぶっ放して、ソロモンに集結した地球連邦軍の主力艦隊を木っ端みじんにするアナベル・ガトー。コウ・ウラキをはじめアルビオンのクルーたちの必死の奮闘にもかかわらず、阻止限界点を超えてむなしく地球へ落ちていくスペース・コロニー。ガンダムのファンでない人が見たら、一体この話のどこがエンターテイメントか、と思うでしょう。主人公たちの努力もむなしく、彼らは孤軍奮闘のまま、結局何事もなしえずに終わってしまったのですから。
本編は、おもしろくはあるけれど、結末は悲惨で「やった」という快感は得られません。世界的ヒットを連発するハリウッド映画のエンターテイメントとは、あまりにも異質といえるでしょう。ハリウッド映画なら、裏切られようが、味方が全滅しようが、あのコロニーは落ちないはずなのです。本来なら、正義であるべき主人公側が勝利するのがエンターテイメントの常道なのに、主人公側は勝利どころか、敵の「正義」に対して異を唱えることすらできません。ここに私は、日本人の背後に横たわる、暗くて深い闇を見る思いがするのです。そしてそれを鋭く表現しているのが冒頭の、アナベル・ガトーの言葉であると思うのです。
ソロモンという地名は、実際に地球上に存在しています。南太平洋、ニューギニア島の東に位置する「ソロモン諸島」がその由来と思われます。ここは、太平洋戦争における日米の激戦地として知られています。真珠湾攻撃に始まる日米の戦争は、当初日本軍の連戦連勝だったのですが、1941年6月のミッドウェー海戦で大敗北を喫し、空母4隻、艦載機350機を失って主力艦隊が壊滅的な打撃を受けてから、徐々に失速していきます。そして1942年8月、日本軍が占有していたソロモン諸島に米軍艦隊が押し寄せ、4ヶ月にわたる激戦の火蓋が切って落とされました。日本軍の上層部が米軍の戦力を低く見積もりすぎるなど、数々の誤認と失敗が重なって戦況は悪化の一途をたどり、輸送船団が次々に撃沈されたため、主戦場のガダルカナル島では数千人の兵士が餓死、陸軍部隊は戦死、戦病死、餓死、行方不明を合わせて2万1200名を失ったのち、ソロモン諸島からの撤退を余儀なくされました。こうして次々に太平洋上の拠点を失っていった結果、日本は制海権・制空権を完全にアメリカに掌握され、日夜を問わず自国上空に爆撃機が来襲して、多くの民間人が命を失うこととなります。
そう、そして本編の「星の屑作戦」はまるで、そんな歴史のリフレインであるかのようにさえ思えるのです。
過去から立ち返ってきた亡霊のように、アナベル・ガトーは叫びとともにソロモンに集結した地球連邦軍の艦隊を粉砕します。スペースノイドの自立とペースコロニーの独立を訴えるジオンの正義(実は選民思想に支えられたザビ家の独裁)は、アジア諸民族の自立と独立支援という「絵に描いたモチ」のような正義を掲げた大日本帝国と、ある意味そっくりです。では、ガトーが討ったその艦隊とは、アメリカなのか? 私はそうは思いません。そういう安っぽい仮想戦史の焼き直しのような話ではないでしょう。地球連邦軍とは、訴えるべき正義もなく、守るべき国民も見えず、高官たちが、ただ軍内部での自らの実権掌握のためだけに汲々として、落ちていくコロニーの先にある地獄を見ようともしない人たち----。兵士達が何のために闘ったか、どんな地獄を見てきたかも知らず、戦後50年かけて築き上げてきた資産を食いつぶしながら、のうのうと、ただ楽しむためだけに生きている今の私たち----。ガトーが討とうとしたのは、そんな人々ではなかったか?
本編を見た後に残るほろ苦い感情のなかに、「ソロモンの悪夢」が伝えたかった何かがあるような気がしたのでした。
※参考文献/「続・日本軍の小失敗の研究」三野正洋(光人社)(2000.7.03)