機動戦士ガンダム MOBILE SUIT GUNDAM

機動戦士ガンダム 1979年4月7日〜1980年1月26日 
TV放映

原作矢立肇/富野喜幸
総監督富野喜幸
脚本星山博之/荒木芳久/山本優/
松崎健一
キャラクターデザイン安彦良和
メカニカルデザイン大河原邦男
美術設定中村光毅
音楽渡辺岳夫/松山祐士


スト−リ−

 人類が宇宙移民を始めて半世紀がすぎた、宇宙世紀0079年、地球から最も遠い宇宙都市<サイド3>はジオン公国を名乗り、地球連邦に対して独立戦争を起こした。約1ヶ月に渡る戦いで、ジオン・連邦はともに総人口の半数を失い、戦争は膠着状態に陥っていた。
そんなある日-----。
 寝起き姿のままで、朝食もとらずにメカいじりに没頭していた少年アムロ・レイのもとに、隣りに住む幼なじみの少女フラウ・ボウがやってくる。彼らの暮らす地球連邦の新造コロニー<サイド7>に、ジオン軍のモビルスーツが侵入したというのだ。避難したシェルターは、攻撃に耐えられそうもない。アムロは軍に所属する父に頼んで、宇宙港に入っている新造戦艦に乗せてもらおうと思いつき、父親の姿を探して走り回る。途中、爆発に巻き込まれそうになったアムロは、連邦軍が開発テストをしていた新型モビルスーツ「ガンダム」の操縦マニュアルを手に入れる。ようやく探し当てた父は、避難民を後回しにして、「ガンダム」を戦艦に搬入しようとしているところだった。失望するアムロ。そこに再び爆発が起こり、フラウ・ボウの家族の死を目の当たりにした彼は、夢中で「ガンダム」に乗り込み、始動させる。そしてその性能に助けられ、見事敵モビルスーツ「ザク」2機を撃墜する。
 連邦軍の新造戦艦「ホワイトベース」に避難した<サイド7>の人々は、そのまま住み慣れたコロニーを離れ、無理矢理地球まで連れていかれることになる。しかも、先のジオンの攻撃で、「ホワイトベース」の正規クルーはほとんどがやられてしまい、士官候補生のブライト・ノアの指揮のもと、運行を続けるために民間人の手を借りざるを得ない事態に陥る。そんな中、アムロ・レイはいやいやながら、モビルスーツ・ガンダムのパイロットとして戦場に立たされる。そこには、のちの彼の運命を大きく左右することになる宿敵・シャア・アズナブルが待ち受けていた------。

物語の背景

 すべてのガンダム・シリーズの発端ともなる、記念すべき第一作。その作品世界の構築のため、莫大ともいえる科学考証・歴史設定がなされています。しかし、これがその世界の始まりであるので、そうした細かな設定などについての予備知識がなくても、作品鑑賞の上では何の問題もありません。

以下に、この作品で提起され、シリーズの根幹となった基本設定について紹介します。

(1)宇宙移民者と、地球居住者との戦い
 地球のまわりに、<サイド1>から<サイド7>までのスペース・コロニー群が建設され、多くの人が宇宙で生活している時代。基本的にはすべて地球連邦というひとつの国家により統治されていますが、宇宙居住者たちは、地球に住む人々との間に意識のずれを感じ、自らの手で、宇宙市民のための国家をつくりたいと考えています。そうした構想を提起したのが、<サイド3>の指導者・ジオン・ダイクンでした。ジオン・ダイクンの遺志を継いだデギン・ザビは独裁体制を敷き、武力をもってこれを実現しようとします。しかし、宇宙移民者の独立獲得のための戦いで彼らの前に立ちはだかったのは、皮肉にも地球連邦に属する宇宙移民者たちでした。

(2)ミノフスキー粒子とモビルスーツ
 ミノフスキー粒子とは、散布するとレーダーをはじめとする電波系が無効になるという物質です。当然のことですが、現実には存在しません。こういうものが開発されたという設定になっているのです。レーダーが無効化されたことで、現実世界で主流となっている誘導装置付ミサイルや、レーダーをつかった遠隔攻撃などが不可能になってしまいます。そうした状況の中で攻撃できる兵器として開発されたのが、モビルスーツです。ミノフスキー粒子とモビルスーツは、セットで使用することで最大限の効果を発揮する戦略兵器なのです。これは「どうしてロボットが戦闘兵器でなければならないか」という、これまでだれも真剣に考えてこられなかったロボット・アニメのSF考証に、制作者が真っ向から取り組んだ結果生まれた、最も重要な基本設定といえます。

(3)リアリティ
 宇宙移民の居住空間は「スペースコロニー」という人造の建設物ですが、その中に広がる風景は意外にも、現在と大差ないものです。登場人物の服装も、ジオンの軍服がやや装飾的なことをのぞけば、わたしたちの普段身につけているものとあまり変わらないように思われます。「ブレードランナー」や「マトリックス」などの近未来SFに見られるような、先鋭的な空間デザインは、この世界にはありません。それは視聴者が「自分と近い」と感じられるようなリアリティを何よりも重視して作られているからです。見る人はその生活空間に、特に何の抵抗もなく入り込むことができるのです。
 こうした姿勢は、主人公をはじめとする人物設定にもあらわれています。特に主人公のアムロ・レイは、どこの学校のクラスにも一人はいそうな普通の少年でした。(実は全然普通ではないのですが・・・(^_^;) そんな彼がどうして主人公になれたか?ということについてはこちらで詳しく考察しています。

(4)ニュータイプ
 宇宙空間を生活の場とする人々はそこに適応することで、今までになかった新しい身体能力を獲得するのではないか、その結果、人と社会は大きく変わってゆくのではないか。これが、宇宙移民者の独立国家構想を唱えたジオン・ダイクンの理念でした。この、宇宙を生活の場にした結果「変わっていく」人をニュータイプと呼んだのです。ジオン・ダイクンがその理念をうったえたとき、ニュータイプと呼ばれる人々が実在したかどうかはわかりません。むしろ「理想」として唱えられてきたようです。しかし不幸にもジオン公国が起こした戦争という「負」の力によって、ニュータイプ能力を開花させられ、それを戦争遂行に利用されるという事態に発展していきます。
 しかし、他の詳細を究める設定にくらべて、ニュータイプというもの自体、作品のなかで定義がわりにあいまいなままとなっています。ニュータイプの特徴としては、▼言葉でなく「思念」によって意思を通わすことができる▼人の心やものの行く末を察知する予知能力的な力がある▼なぜか不幸な人が多い---などがあげられます。このようにあいまいでありながら、ニュータイプという概念はその後のガンダム・ワールドの展開に非常に重要な役割を果たしていくことになります。作品世界を貫くテーマ性を持っているといってもいいのではないでしょうか。

放映後の反響とその後の展開

「機動戦士ガンダム」は、これまで定説であったロボットアニメの常識の枠を打ち破ることを制作者が意図して作った作品でした。その背景には、SFアニメとして異例の大ヒットとなった「宇宙戦艦ヤマト」の成功がありました。このアニメも、TV放映当初は視聴率がふるわなかったのですが、放映終了後から大きな反響が寄せられ、10〜20代という高年齢層の新たな視聴者の存在を世に知らしめることになったのです。
 「機動戦士ガンダム」もやはり「ヤマト」同様初回放映時はやはり視聴率がふるわず、あえなく放映打ち切りとなります。しかしその直後から10〜20代の間で話題となり、再放送を望む声が高まりました。そして再放送をきっかけに「ヤマト」を越える空前の大ブームを巻き起こします。
 このブームを後押ししたのが、「ガンプラ」の名でおなじみの、バンダイのプラモデルでした。「機動戦士ガンダム」の放映当初のスポンサーはクローバーという玩具メーカー(のちに倒産)で、当時主流だった「超合金」をラインナップしていました。これは従来型の低年齢層向けの展開であり、メインの視聴者である高年齢層のファンにはあまり魅力のないものでした。そうした中、視聴者からは「超合金よりもプラモデルを出してほしい」という声が上がってきます。この声に賭けたのがバンダイでした。通常こうしたキャラクター商品は、放映終了後まもなく市場から消えるのですが、ガンダムのプラモデルは、TV放映が終了した後に始めて店頭に出るという、まさに常識を覆すような形で登場したのです。「ガンプラ」人気はさらに作品の人気を高める結果となり、劇場版が公開されるに至りました。人気機種(?)はいつも品切れで、社会問題になるほどでした(バンダイってわりとこういうのが多いですね。たまごっちとか・・・)。悪質な抱き合わせ販売も行われ、私の友人のひとりは「いつも、ザクとかドムとといっしょに『名古屋城』なんかを買わされて、仕方ないから『名古屋城をぶっこわすザク』というジオラマを作った」などと当時を振り返っていました。
 しかし、よもやこの作品に続編が作られようとは、当時だれも想像だにしなかったのもまた事実です。

レビュー

 まずはここで、恐ろしいことを告白せねばなりません。私はガンダムの原点ともいえる、このTV版「機動戦士ガンダム」を、たった一度しか見ていません(※注:その後、レンタルビデオを借りて再見し、あらすじ等のコンテンツを作成しました)。今では考えられないことですが、家庭用VTRを持っている人が、とても珍しい時代だったのです。(厚かましくも、作品についてあれこれ批評したり解説したり、考察したりしていますが、これは「劇場版」に基づいていることを付け加えておきます)。
 アムロ・レイは当時の私の目から見ても相当に情けない主人公で、彼がいじけたり、泣いたり、逃げたり、白目になったりするのを、イライラと切歯扼腕しながら見ていました。それがだんだんと強くなっていくのがまた自分のことのようにうれしかったのを覚えています。しかし最後の決戦、ア・バオア・クーでのシャアとの生身の対決のあと、「ああ、こんなにがんばったのに、最後はみんなを助けて死んでしまうのか」と思ったのです。それだけに、あのラストには猛烈に感動させられました。
 また、何よりもこの作品に引きつけられのは、この物語が単純に悪い敵をやっつけるというものでなく、「なぜ戦うのか」「なぜ戦わなければならないのか」ということを、近未来戦争をリアルに描くなかで突き詰めたものだったからです。
 ガンダムがブームになったころ、新聞などにしばしば「戦争を賛美する、危険なアニメだ」という記事が出たものです。確かに、ガンダムはロボットを「兵器」としてかっこよく描いて人気を得ました。しかし、ここでは戦争を肯定も否定もしていません。ただ現実(その世界で現実とされているもの)を生き抜く人々それぞれの生き様を描いているのです。その時私が感じたことを今言葉にしてみると「戦争を放棄したり、平和主義を口先だけで訴えてみても、平和は守れもしないし、作ることもできない」ということでしょうか。こうした視点は、私に自分自身が生きているこの世界で現実に起こった戦争について「もっと知ろう」とするきっかけを与えてくれました。
 長くなりましたが、最後にひとつ。30歳(まったく、いい年して何やってんだか(^_^;)をすぎて改めてこの作品に触れ、私はようやくアムロ・レイというキャラクターの魅力に気づかされました。戦闘能力は別にして、精神面を見るとアムロは弱い、シャアは強い。それがずっと私が持っていた印象でした。しかし、現実世界を生きる上で、シャアの強さを真似ることは意外に簡単です。それに比べて、バカ正直に、要領悪く、自分の感情をさらけ出して生きるアムロを真似ることは、ちょっとやそっとではできません。傷つくことが目に見えているからです。そういう目で見てみると、傷つき、落ち込みながらもそれを乗り越えてゆくアムロというキャラクターは、「傷つくことを恐れない」という類い希なる強さを持っているといえるでしょう。そのことに気づくのが遅すぎたために、私はずるい大人になってしまいました(T.T) (2000.7.03)

評点 ★★★★★


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