MUDDY WALKERS 

私は貝になりたい(2008)

貝 2008年 日本 139分

監督福澤克雄
脚本橋本忍

出演
中居正広/仲間由紀恵/笑福亭鶴瓶
上川隆也/石坂浩二/柴本幸
西村雅彦/平田満/加藤翼
武田鉄矢/六平直政/荒川良々

スト−リ−

 高知の海辺の小さな町で散髪屋を営む清水豊松(中居正広)。妻の房江(仲間由紀恵)との間には一児(加藤翼)に恵まれ、つつましくも幸せな日々を送っていた。しかし戦時中とあって食糧事情は厳しく、町でも次々に男たちが招集されていく。そしてついに、豊松の元にも召集令状が届き、彼は兵隊として厳しい訓練を受けることになる。配属されたのは本土の部隊。空襲が激しくなったある日、米軍の航空機が墜落したとの知らせが入る。搭乗員2名は捕らえられ、「適切に処理せよ」という矢野中将(石坂浩二)の曖昧な指示から、2名の米軍兵士は殺害されることになる。彼らを殺害するよう命令を受けたのは、部隊の落ちこぼれだった滝田(荒川良々)と豊松だった。
 やがて終戦を迎え、豊松ももとの散髪屋の仕事に復帰する。幸せな日々を取り戻したかに見えた矢先、占領軍のMPがやってきて、豊松は逮捕されてしまう。捕虜殺害の罪を問われ、彼は戦犯として巣鴨プリズンに収監された。豊松は無実を訴えるが聞き入れられず…。

レビュー

 1958年にテレビドラマとして放映され、大きな話題となった作品のリメイクである。翌年には映画化され、またその後も何度かテレビドラマや映画としてリメイクされてきたようだ。それだけインパクトの強い作品だということははっきりしている。何よりもタイトルが印象的だ。無実の罪を着せられた戦犯の話だということは知っていた。あまり興味をそそられる題材ではないのだが、このように有名な作品のリメイクという話題性で、試写会に行かせてもらったのだ。
 悲しい場面がたくさんあるだろうということは予想できたが、私自身はまったく他人事のような冷めた目で映画を観てしまって、最後まで世界に入り込めなかった。決して悪いできではないと思うのだが、映画としては、正直つまらなかった。それはなぜかと考えて箇条書きにしているうちに、内容がどんどん膨らんでしまった。★3つ以下の作品は短いレビューでまとめるのが常だが、今回は特別に、長くまとめてみようと思った。

 映画の内容については、物語をはじめから順序よく語っていく手法で分かりやすく作られている。逆にいえば、いかにもテレビドラマ的である。物語のはじめから最後まで、数年の歳月が流れているはずだが、豊松の子供がまったく成長していない(子役の演技は素晴らしかった)。終戦後の国情の描写もない。そんなこともあって、時間がどれだけ経過しているのか、まったく把握できなかった。一体豊松は絞首刑になるまで何年間、巣鴨プリズンの中にいたのだろうか。期間が伝わらないから、それに伴う悲壮感も希薄である。
 物語が動き出すのは、米軍機が墜落したという知らせが入ってからである。爆撃機(だろう、多分)の墜落によって2名の米兵が捕虜になるのだが、爆撃機が墜落するシーンも、残骸らしきものもまったくない。捕らえられて殺されるまでの米兵の扱いは、のちの裁判で争われる論点になるのだから重要だと思うのだが、ここは、豊松が、命令されてやむを得ず捕虜を刺したという一点に集中していて、状況描写が不足している。なんだか、戦争映画としては手を抜きすぎだと思う(捕虜を捜しに行くシーン、滝の場面や崖から落ちる兵士たちの場面は「プラトーン」からパクっているだろう。そんなシーンより、もっと重要なシーンがあったはずだ)。捕虜を殺したといっても実際には、木にしばりつけていた時点で死んでいて、しかも豊松の銃剣は腕を掠っただけというのも、なんだか豊松を善良な人間に仕立てるための設定という感じでリアリティに欠けるのだ。
 正直なところ、豊松という人物にまるで共感を覚えないのである。理由は、彼があまりにも善人すぎるというところだろうか。豊松は、落ちこぼれで殴られてばかりいた同僚をかばい続けていたために、捕虜殺害の下手人に選ばれるという不名誉を被ったわけだが、そのことで同僚の滝田を恨んだりしなかったのだろうか。捕虜を殺すことを、彼自身はどう思っていたのだろうか。有名な戦陣訓は当然知っていただろうから、日本兵はみな捕虜になった米軍兵士を軽蔑していたと思う(だからこそ、虐待も激しかった。物資の不足という事情ももちろんあったが)。そういう、日本軍の行動の背後にある思想も描かれていないし、それに対する彼の姿勢などもまったく描かれていないので、中居は脚本に描かれた範囲でよく演じているとは思うが、人物が薄っぺらく感じられた。なんだか、人物がみんな、現代人に思えてしまった。

 このように、どうして、1958年の日本人が感動を持って観たというドラマを、私はこんなに冷めた目で観てしまうのだろうと思ったときに、やはり、時代の差というものを感じずにはいられないのだった。
 映画では、豊松をはじめ、収監されているBC級戦犯たちが、みんな無実の善良な人間に思えてしまう。確かに豊松は無実で、事実そういう人がたくさんいたのかもしれないが、彼が戦犯すべてを代表しているわけではないだろう。実際には、日本軍が行った捕虜虐待は大変なもので、明らかな戦争犯罪であるのに、わざとそこを映画の中で描かない欺瞞的手法で、日本そのものが、まるで悪いことをしていないのに無実の罪で裁かれているかのような印象を与えかねない。むしろ、悪いのはアメリカだ、とこの脚本を書いた人物は言いたげである。
 最初にこのドラマが作られた1958年当時の人々だったら、そういった主張のあるドラマを、ある意味「胸がすく」思いで見られたのかもしれないが、今は時代が違うし、ここで描かれていることはすでに「歴史」の一ページになっているのである。
 この作品は、フィクションだそうである。史実との境界線が曖昧なのだが、実際に、BC級戦犯で逮捕された者のうち、士官ではない末端の二等兵が死刑になるということはあったのだろうか。戦争の不条理さがテーマなのだろうが、戦争が不条理なのか、戦犯裁判が不条理なのか、単にこのシナリオが不条理なのか、これでは判断に困るのだ。すでに「歴史」の一ページとなった出来事で、しかも戦犯に対する裁判という、真実がどこにあるのかを問いながら戦争の不条理を訴えかける作品なのに、史実とフィクションの境界線を彷徨っているような見せ方では、観る側として自分をどういう立場に置いて観ればよいのか、困惑してしまう。このことについて、監督の福澤克雄氏の「信念」や「思い入れ」が見えて来ないからなおさらだ。監督の関心は、いかに映画の中に美しい風景を織り込んで仲間由紀恵を美しく見せるかということぐらいしかないように思えてしまった。久石譲の音楽会のように、音楽も過剰だった。美しい風景を眺めながら音楽を聴かせるような内容の映画ではないだろうと思うのだが、ちょっと、演出がズレている。
 中居演じる豊松が、巣鴨プリズンの一室に入れられると、そこには草なぎ演じる大西がいた。別にそれだけの場面なのだが、笑ってしまった。笑ったのは私だけではなかった。笑った理由は、彼らが同じSMAPのメンバーだからということだからだと思う。でも、ここで「あ、SMAP」と思い出すことで、現実に引き戻されてしまうのである。だからこの笑いは、あまりいい笑いではないなと思った。
 実は、この映画で一番興味をそそられたのは、「遺書・原作・題名:加藤哲太郎『狂える戦犯死刑囚』というクレジットである。加藤哲太郎は陸軍中尉で、戦犯として服役中にペンネームで原作となる作品を発表し、「私は貝になりたい」という遺書はここで発表されたものだという。脚本家の橋本忍はそれを無断でドラマに使用し、のちに加藤哲太郎氏は、著作権違反の申し立てを行って、1959年に映画化された際にクレジットを入れることになったということである。
 原作者自身は、黙って貝になっているような人物ではなかったのだ。

評点 ★★

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