レビュー
奴隷解放宣言、そして「人民の、人民による、人民にための政治」のフレーズで有名なゲティスバーク演説。アメリカの第16代大統領アブラハム・リンカーンについて、日本で知られていることは多くない。「だからこそ、その人生をもっと知りたい」と思ってこの映画を選んだとしたら、ちょっと後悔することになるかもしれない。なぜならアメリカでは、最もよく知られた歴史上の人物であり、その人生をたどる伝記映画を作ったところで「何を今更」になってしまうだろうからだ。
しかし、それでもスティーブン・スピルバーグ監督はこの映画を製作した。今、彼がこの映画を作らねばならないと思ったその思いと情熱が、ほとばしるかのような映画だった。
映画で取り上げられるのは、リンカーンの人生のほんの一部にすぎない。南北戦争で南軍の敗色が日に日に濃くなり、北軍で勝利の予感に沸き立つ中、リンカーン自身は一つの焦燥に駆られていた。それは、奴隷制の存続を主張するアメリカ南部諸州による南軍が降伏し、戦争が終結した後では、奴隷制度の廃止を明記した、アメリカ合衆国憲法の修正13条の下院での可決が困難であることが明白だったからだ。戦争が終わって南部諸州がアメリカ議会に戻ってくれば、反対票を投じることが目に見えていた。それでは、奴隷制を廃止させるために戦ったこの戦争の意味がなくなってしまう。戦争終結前に、修正13条を下院で可決させ、奴隷制の廃止を憲法に盛り込むこと。そのための政治的駆け引きこそが、この映画のメインストーリーなのだ。
そんなわけでスピルバーグは、得意とするリアルな戦闘場面を冒頭のみで早々に切り上げ、ホワイトハウスでの国務長官をはじめとする側近とのやりとり、共和党と民主党との議会での討論へとカメラを向けていく(ちなみにリンカーンと奴隷解放派は共和党、奴隷制の存続を求めるのは民主党、イメージ的に現代の共和党、民主党と逆な感じがするので少々混乱するかも)。
この「政治的駆け引き」を含んだリンカーン、重鎮たち、共和党内部の急進派、敵対する民主党議員、そして票集めのためにかり出される有名無名の人たち。それらの人物が編み出す一つひとつの会話こそがこの映画の描く「戦い」であり、肝なのだ。登場する多数の歴史的人物について私はほとんど知らなかったが、彼らが交わす会話の一語一句に、なんだかとても引き込まれてしまった。まさに、そこに生きて歴史を動かしていく「政治」が営まれている、と思ったからだ。
講和について話し合うために、密かに訪れた南部連合の幹部に「足止め」を食らわせ、「私は強大な権力を持つアメリカ合衆国大統領なのだ。私のために、票を集めろ!」と叫ぶリンカーン。これを「汚いやり口」と見るか、交渉のスキル、権力者としての自負とみるかで映画に対する評価が変わってくるかもしれない。ある人は、そんな一面に失望するだろう。しかし、リンカーンの言葉には、それを補って余るものがあった。修正13条は、今奴隷になっている人だけでなく、これから生まれてくる将来の人々をも奴隷の身分から解放する、歴史的な条項なのだ、だからこそ権力をふるってでもこれを実現しなければならない、という思いである。こうした政治的使命に奉仕するという意識を持った政治家が、今の世の中にどれだけいることだろう。
傍聴席に黒人を招き入れての、下院での採決場面。修正13条は「生温い」としていた共和党急進派のスティーブンスがどう出るか、果たして議員退職後の職業斡旋をエサにした票集めはうまく行ったのか。議会答弁と開票に、こんなにワクワクできるとは思わなかった。全体を通して脚本、演出のレベルが非常に高く、歴史的な知識のあまりない私でも、非常にわかりやすく伝わるもののたくさんある映画だった。
ダニエル・デイ=ルイス演じるリンカーンは素晴らしかった。会話の途中で、突然「こんな話がある」とまったく関係のないエピソードを話し出すリンカーンだが、中でも、戦場の司令官へ電文を送る場面が印象的だった。通信技術士との会話で、彼は唐突にユークリッドの公理について話し出す。同じものと等しいものは互いに等しい。歴史的なリンカーンの人種間の平等についての考え方とは別に、この挿話を通して、私はスピルバーグ自身が語っている、と強く感じた。そして、下院での採決のとき。兵士たちが、通信を聞き取りながら賛成票、反対票の数を一つずつ数え上げている場面。武力ではなく言論とそれに賛同する票によって動かすもの、それが民主主義政治なのだということを強く感じさせる場面だった。その中に、今こそ原点に帰ろうではないか、というスピルバーグのメッセージを受け取った、というと、言い過ぎだろうか。
このアメリカの憲法修正法案の可決条件は、大変厳しいものである。日本でも今、憲法改正を目指す一派が、まずは第96条、改正条件の緩和をめざして動き出しているが、そういう人は、民主主義の本質を見失っていると思う。票集めに奔走する人々がたとえ愚かで薄汚く見えたとしても、それでもそこには、政治的使命を果たそうとする情熱と、人々の心を動かす言葉の力がうごめいているではないか。
評点 ★★★★★ |