MUDDY WALKERS 

博士の愛した数式 

博士の愛した数式 2006年 日本 117分

監督小泉堯史
脚本小泉堯史

出演
寺尾聰/深津絵里/斎藤隆成
浅丘ルリ子/吉岡秀隆

スト−リ−

 ある高校の数学教師(吉岡秀隆)が、最初の授業で、なぜこの道を志すようになったかを語り始める。彼をルートと名づけたのは、ある天才数学者「博士」(寺尾聰)だった。家政婦の母(深津絵里)は女手一つでルートを育てていた。彼女が新しく派遣されてきたのが、未亡人(浅丘ルリ子)の義弟である博士の住まう離れだったのだ。博士は昔起こした交通事故のため、脳に障害があり、80分しか記憶がもたない。これまでに9人も家政婦が変わっている「やりにくい」人だった。しかし、博士は家政婦の誕生日が2月20日=220であることを知って、この出会いを特別のものと喜ぶ。そして腕時計に刻まれた284の数字を見せて「友愛数」について家政婦に教えるのだった。
 そんなある日、博士は家政婦に10歳の息子がいることを知る。博士は、子供が遅くまで一人でいるのは良くないと、学校が終わったら子供も博士の家に来させるようにと言った。こうして母と子と博士3人の不思議な生活が始まるが…。

レビュー

 原作の小説を読んだとき「これが映画になったら面白いだろうな」と思ったが、同時に「映画化するのはとても難しいだろうな」とも思った。数式という観念的なものを、映像でどうやって表現していくのか。ここがカギになるだろうと思った。
 小説では家政婦である「私」の視点で話が展開していくが、映画では大人になり、数学の先生となった家政婦の息子の回想という形で物語が始まる。「愛してはいけない人」の子供を一人で産み育てている家政婦のもとに、新しい派遣の依頼が来る。依頼者は立派な別荘に住む美しい未亡人。離れに一人で暮らす義弟の世話をしてくれという。才能ある数学者だった義弟「博士」は交通事故で脳を損傷したため、80分しか記憶が出来ないのだった。博士にとって、毎日やってくる家政婦が、毎日新しく出会う人なのだ。そして必ず靴のサイズを聞く。博士は何よりも数字を愛しているだけでなく、数字によって特別な感情を受け取り、またそれを表現していくのだ。

 映画ではそれを「黒板」というアイテムを使って私たちに見せてくれる。それがとても良い雰囲気を作り出していて、関心させられた。博士の家には、あちこちに黒板があって、未亡人が毎日、今日の日付と、その時々に必要な事柄を書き付けている。また、博士が記憶しておきたいことや、思いついたこと、後で頼みたいこともそこに書き付けられる。そういう実用的な意味で使われているのであるが、一方で、文字が書かれては消される黒板は、80分たったら消えてしまう博士の記憶を象徴しているものでもある。凝った手法を使うことなく、ありふれた小道具で博士の不思議な世界を表現したところが良かったと思う。

 大人になったルートをはじめ、映画化にあたってかなり改変が加えられているものの、それが原作の雰囲気を壊さず、むしろ豊かにしているところが素晴らしい。物語は実に日本映画らしく、大きな起伏もなく淡々と進んでいくが、そんな中にあって、ひとつ一つのセリフが単調に見える物語を深めてくれる。数学という観念的で難解なものを、やさしく親しみと驚きにあるものに変えてゆく博士の会話も、実に素晴らしく練り上げられていた。

 この映画の中の登場人物はみんな名前を持っていない。これまでどんな人生を歩んできたのかも、ほんの少ししか語られない。実はそのほんの少しの所に、登場人物それぞれが持つ暗い感情が隠されている。時折、博士が「自分は記憶ができない」ことに直面したときに見せる「ただこごではない」苦しみ方には、単に自分が記憶できない嘆きだけでなく、記憶しておきたくないことを記憶している嘆きがあるのだと思う。それが何かは語られないけれど、博士が言うように、それは「心で見る」ものなのだ。

 子供のように数学を愛する天真爛漫な天才数学者を、寺尾聰は見事に演じた。着古した背広にメモ書きを張り付けた様子は、浮世離れしている上に、認知症かアルツハイマー症にかかっている人のような(記憶の障害という意味では同じだ)哀れさを感じさせる。そうでありながら、数学者としてのキレを併せ持つ、不思議なキャラクターを体現してみせた。家政婦の深津絵里も、意外にあっていた。子役のルートと大人役の吉岡秀隆はそっくりさんで○。浅丘ルリ子は目の回りを黒く塗りすぎて魔女みたいだったが、ある意味意地悪な魔女のような役なので、よかったのかも。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
(新約聖書 コリント人への第二の手紙 4:18)

評点 ★★★★

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