小林昭人
※大分昔に友人のホームページに書いてやった文章で、書いた私も忘れており、長い間行方不明になっていたものですが、ふとしたことから出てきました。ちょうど新しく連載するアリスさんの作品がこの時代を扱っている事もあり、これも何かの縁だろうということで、古い文章ですがコンテンツとして表に出す事にしました。当時起きた京都信金立てこもり事件について書いたもので、ややコミカルに書かれた文章です。ワードで書かれた当時のフォーマットはビルダーに直しましたが、強調の使い方や色使いなどは可能な限り当時のままとしました。
事件(12/28)
平凡社世界大百科事典の記述を見ると、Jonh Brown(1800-59)氏は「社会運動家」と記述されているが、彼をこのカテゴリーに分類していいかどうかは非常な疑問である。むしろ彼は「テロリスト」と言った方が良く、その狂信性および手段の残忍さは、世が世ならテロリスト「アルカイダ」やアサシン暗殺教団の同類として、歴史の暗黒史にその名を刻むことになっただろう。彼が当時の奴隷開放論者の「英雄」として崇拝されたのは、やはり彼の生きた時代によるところが大きい。
地下運動組織 ”Underground Railroad” の活動家として奴隷解放運動の一翼を担っていたブラウン氏だったが、彼がなぜ奴隷解放の思想を持つようになったのかは明らかでない。農業を始めとするいくつかの仕事を転々としていたが、どれも長続きせず、ほとんど成功しなかった。彼は信仰者であったが、時には原始時代の戦士のように残忍になることもできた。1855年、共和党支配のカンザスで奴隷解放の活動家が殺害されたことを知ったブラウンは息子らと共にリッチモンドからカンザスに移動し、奴隷賛成派の農民5人を残忍な方法で殺した。これは「血塗られたカンザス」事件の引き金となり、その後200人が死亡する抗争に発展した。
その後4年間、ブラウンは奴隷解放の「ゲリラ」組織を率い、各地で奴隷制支持者に対するテロ活動を行ったため、彼の名は北部の白人の活動家達にあまねく広まることとなった。奴隷制度に支えられ、政治的にも強大な権力を持つ南部の奴隷制支持者に対し反対していた者の中には、ブラウンの過激な方法に対する支持が拡がりはじめていた。実際、聖人を思わせる禁欲的な風貌と、ローマ人奴隷スパルタカスの反乱に憧れ、高潔かつ無私、遅れてきた「神の使者」ブラウンとその軍隊は、これら清教徒の子孫達にクロムウェルの「鉄騎団」を連想させた。17世紀の「護国卿」オリバー・クロムウェルもまた、高い理想と神の国の実現のため、腐敗した王権と戦ったピューリタンの戦士であった。高邁な理想を掲げるブラウンは、見ようによっては彼らのリーダーとしてふさわしい人物に見えないこともなかった。
ブラウンの考えるところによれば、彼の起こした一連の騒乱には、全て聖書によって聖別された意味があったらしい。それは「アンクル・トムの小屋」のキリスト教版殉教物語というべきものであり、彼の信ずる力とは、モーゼを助け、ファラオの軍隊を紅海に沈めたエホバのそれであり、正当な怒りとは、金貸しのユダヤ人を寺院から放逐したイエスのそれであった。そしてインディアンの部族抗争を彷彿とさせる残虐な所行の数々は、彼のお好みの新約聖書「ヘブライ人への手紙」9章22節に記された「罪のミッション」であった。最後の項目については、この手の思想は、今の日本では「ポア」と言った方が分かりやすいかもしれない。
「そうです、律法によれば、ほとんどすべてのものが血によって清められ、血が注ぎ出さなければ、許しはされないのです(In fact, the law requires that nearly everything be cleansed with blood, and without the shedding of blood there is no forgiveness. (Hebrew 9:22) )。」(新約聖書 ヘブライ書 第9章22節 「キリストの血」より抜粋)
事実、フレデリック・ダグラス(アメリカの黒人指導者)などはブラウンの考えに共鳴するようになっていた。同種の反応は他の活動家にも見られたものであった。1858年のダグラスの友人宛の手紙は、「歴史上において抑圧された人民が他民族によって解放された例はない。」とし、「それが血によって生まれた以上、それを廃するのにも血をもってしなければならない。」という考えが記されている。ブラウンの強い影響が伺える。
1859年、それまでの活動(悪行)で勇名を轟かせたブラウンは、一つの大それた計画を思いついた。ハーパーズ・フェリーの連邦武器庫襲撃である。武器庫を襲い、武器を黒人達に分配することによって、彼ら自身による奴隷解放を実現しようとしたのだった。それはあらゆる角度から見て無謀な計画であり、彼の友人(になっていた)フレデリック・ダグラスは助力を拒否した。計画には逃走ルートさえ考えられておらず、事実そうなった通り、彼は殉教を考えていたのだという説もあるが、実際は単に計画がずさんだっただけである。
この計画の最初の犠牲者が皮肉にも彼らが解放しようとしていた黒人の鉄道員だったことは、奴隷解放運動を志した彼の真の動機が何であったかを考えるのに非常に興味深いことである。実は単に華麗なリッチモンドの社交家を妬んでいただけだったのかも知れない。ハーパーズ・フェリーを襲ったブラウンの「軍隊」の総勢はわずか21人、合衆国資産に対する襲撃にはいささか貧弱にすぎることは否めなかった。
同志に引き入れるため、チェンバース近くの採石場で彼がダグラスに語ったところによれば、彼のこの襲撃によって「蜂の巣をつついたように」黒人達が蜂起するはずであったが、実際はそのようにはいかなかった。ブラウンの「解放軍」は守備兵と地元住民に首尾良く撃退され、ブラウンは「人質(大義のためには多少の犠牲はやむを得ないものだ)」と共に消防団の倉庫に立て籠もった。そこにおっとり刀でやってきたロバート・E・リー大佐率いる海兵隊が到着し、夜襲でブラウンを生け捕りにした。人質の生命を守るため、リー大佐はその部下J・E・Bスチュワート中尉に銃器の使用を禁止した。
一説によると、交渉の使者を装いブラウンを捕らえたのはスチュワート中尉本人であったと言われる("God and Generals" というあまり有名でない小説にはこのように書かれている。)。辺境のインディアン狩りしか仕事がなく、総人数わずか4000人、郵便局にさえ劣る陣容で、リストラの嵐(同じ頃、ウェスト・ポイントの劣等生、後の北軍総司令官であるグラント将軍は弟の家で馬具のセールスマンをしていた)が吹きすさんでいた合衆国陸軍に残っていたこの2人は当時のアメリカ最優秀の軍人、つまり合衆国軍司令官であったウィンフィールド・スコットの文字通りの「切り札」であった。この2人にとってブラウン生け捕りなど朝飯前のことではあろう。ブラウンが期待していた黒人の「義勇軍」は最後まで到着しなかった(するはずもないが)。その後、ブラウンは裁判にかけられ、その他4人の同志と共に絞首刑に処せられた。
ジョン・ブラウンの死によって「蜂起」したのは、実は虐げられた黒人ではなく、むしろ、実生活では黒人の姿さえ見たことのない、奴隷制を憎む北部の教養ある白人達だったかもしれない。実際、教育ある白人の知識人で奴隷制の蛮行に嫌悪感を持たない者はいなかった。処刑の日、教会は弔鐘を鳴らし、分時砲が死者に対する弔意を轟かせた。当時の教養人である多くの牧師達がこの「自由の殉教者」について感動的な説教を行い、彼の死はエマソン(アメリカの思想家、文人)を始めとする多くの詩人達の魂を揺さぶった。
セオドア・パーカー(アメリカのユニテリアン派牧師)は彼を殉教者(martyr)ではなく聖者(saint)と呼んだ。老ブラウンはさながらイエス・キリストのように、その死によって多くの迷える子羊の罪を購ったというわけだ。聖者は時にはまさかり(broadsword)で捕らえた者の首を切り落とすような残忍な所行をしていたのだが。これは実際のブラウンが絞首を避けるため最後まで見苦しい抵抗を続けたこと(死刑執行人の前で精神錯乱さえ起こした)とは好対照であったが。そんなことは問題ではなかった。実際、この結末(絞首刑)は彼にとっては「思わぬこと(”I am worth inconceivably more to hang than for any other purpose”.:絞首直前に彼が兄弟に漏らした言葉)」であったかもしれない。当時流布された絵には処刑場に赴く途中、黒人の子供にキスをするブラウンの図があるが(コピー機の元祖であるテレグラフは当時も存在していた)、これはほとんどキリストのような描かれようだが、こういう事実はまったくなかった。これはその後の創作である。
処刑直前に黒人の子供にキスをするブラウンの肖像画
実情はエマソンが感動的な筆致で記したように、「(ブラウンは)死することによってあの磔(はりつけ)にされた聖人と同じく聖別され、、彼はその天命を知りつつ粛々と受け入れ、我らを目覚めさせた。」わけでは決してなかったが、当人の意思とは関係なく偶像化されたブラウンの名は南北戦争中の北軍行進曲にも採用され、「聖者ブラウン」の軍隊は最終的には奴隷制度を崩壊させることになった。そういう意味では彼の蛮行と死は、生前の彼が目標としていたものについての大衆の熱狂と使命に相当の寄与をしたことは否定できないだろう。
以上はJames M. McPherson著 “Battle cry of freedom---The Civil War era” の記述を参考につらつらと書いたものだが、一昨日から昨日にかけて、この事件を彷彿とさせる事件が起こった。金融資本の横暴に対する野蛮で稚拙な蜂起、しかし単なる銀行強盗ではない、法務大臣や最高裁判所長官宛のビデオまで用意したという当人にとっては、おそらく何か重大な使命があったのだろうし、たぶん絞首台には行かないが(人質等強要処罰法の法定刑の最高限度は10年である)、おそらく三審制の限度一杯まで法廷で自己弁護に汲々とするであろうこの人物については、さながら「ブラウンの子孫」という言い方もできるかもしれない。長い裁判期間の間には、横暴な「貸し剥がし」「貸し渋り」を行ったような悪の銀行家は残らず囹圄(れいご)にあえぐ身となっているのかもしれず、彼を破滅に追い込んだ政官財の悪のトライアングルの枢要な人物は公開処刑されてしまうかもしれない。彼の主張は大筋では決して間違っていたとは言いがたいところがあった。改革を叫ぶ人物が徳田なる人物を聖人として崇めて歩くということはまずなさそうであるが、、
人質解放、容疑者を逮捕 京都中央信金立てこもり
京都市下京区函谷鉾(かんこぼこ)町の京都中央信用金庫本店(布垣豊理事長、地下1階・地上9階建て)6階応接兼会議室で、同区万里小路町、元不動産会社社長、徳田衛一容疑者(60)が職員4人を人質に立てこもった事件で、徳田容疑者は27日午前2時半ごろ、残る人質2人を解放して投降。人質らにけがはなく、事件は発生から約16時間半ぶりに解決した。京都府警は徳田容疑者を人質による強要行為等の処罰に関する法律違反と銃刀法違反容疑で現行犯逮捕し、回転式拳銃2丁と実弾を押収した。
信金立てこもり:理事長ら4人を名指し批判 「まじめだった」
、、(徳田容疑者の元部下と称する)3人は会見の冒頭、徳田容疑者がマスコミに向けて書き残したという「行動釈明書」という文書を公表した。この中で「私を陥れた当人たち」として京都中央信金の理事長ら計4人の名前を挙げ、「今、手にしている、この拳銃の射程にとらえたことがある」と記述していた。かつてアジア各地で取材を受けた相手として数人の実在する記者の名前も列挙していた。
とりあえず、彼はまだ留置場にいる身であり、裁判所のお白州に引きずり出されるのは当面先の話であるが、参考までに彼の先人が法廷で主張した内容の一部を引用しておきたい。留置場でインターネットが使えたなら(そんなものはないが)、あるいは拘置所で彼のもとに届くことはあるかも知れない。
「、、私を裁くことのできる法廷とは、正当な神の法によって成立したもののみである。適用すべき法とはすなわちバイブル(聖書)であり、私はその聖書の法に従って全てのことを行ってきたにすぎない(筆者注・哀願する奴隷支持者の首をまさかりで切り落とすことも含む。)。さらに、聖書が私に教えるところによれば、神と私は深い絆で結ばれていることになり、私はその神の命をこの世に実現すべく努力した者である。今、神がそれを望むというのであれば、私は正義の実現のために私の生命を捧げよう、そして、死する私の血は、戦いで命を落とした私の子と(1855年以来の抗争でブラウンは息子三人を失っていた)、邪悪で残酷で不正な立法によって虐げられた数百万の黒人の血の大海に加わることになるのだ。 それゆえ、私は言う、「私を絞首せよ」、と。」(McPherson “Battle cry of freedom-----The Civil War era” 1989年(原著1988年) バランタイン書房 209頁、邦訳なし、翻訳に多少の意訳あり。)
人間、被告席に立つと何かしら高揚感を感じ、義務を感じ、人格が変わると言われるが、ブラウンもまたその例に漏れなかったようである。法廷での彼の態度は立派なものであった。じたばたしたのは絞首台においてである。
この事件について、イリノイ州弁護士・共和党員エイブラハム・リンカーンは次のように評している。当時(1860年)彼は共和党の有力な大統領候補であった。
「(ブラウンが)よしんば奴隷制度反対という主張において余と軌を一にするといえども、、余はブラウンの行った横暴と流血、そして反逆を看過することはできぬ、、ブラウンの処刑は必要であり、かつ、妥当な判断であった。」
(McPherson・前掲212頁)
リンカーンのブラウンに対する評をもって是とする。
2002年12月28日作成 2003年6月16日加筆修正
※この徳田氏は2004年の高裁まで争ったのですが、最高裁まで上告したかどうかは分かりません。現在は判決が確定し服役中だと思いますが、私もすっかり忘れていました。上のリンカーンの結論は、執筆当時と同じく、現在の私でも支持できるものですね。
2006年12月12日 小林 昭人