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 機動戦士ガンダム(1979)各話レビュー

 第15話「ククルス・ドアンの島」

脚本/荒木芳久 演出/斧谷稔 絵コンテ/貞光紳也 作画監督/鈴木一行

あらすじ

 ホワイトベースは連邦空軍のSOSを傍受する。それはポイント305から発信されていた。ただちにアムロはコア・ファイターで救援に向かった。そこには島があり、海岸に攻撃を受けて不時着した戦闘機があった。しかもパイロットたちは負傷したままシートにしばりつけられていたうえ、すべての武器が奪われていた。パイロットを助けようとするアムロの前にザクが出現、アムロは応戦するがやられてしまい、海面にたたきつけられて意識を失う。

コメント

 11話「イセリナ、恋のあと」以降、定番だった冒頭のナレーションの内容が毎回変わるようになっている。このナレーションは、本作の舞台となる宇宙世紀時代と一年戦争の経過を説明する個所として貴重である。そこからわかるのは、設定の緻密さというよりは「おおらかさ」、と言っておこうか。
 15話の冒頭では、一年戦争の具体的な被害について語られている。「この大戦で四つの宇宙都市の群れが消滅し、わずかサイド6のいくつかの宇宙都市が残るのみである」とあるのだが、この4つの宇宙都市の群れというのはサイド1、2、4、そして5のことを指しているようだ。11話のナレーションでは、ジオン公国について「数十の宇宙都市からなる・・・」と説明してたことからして、各サイドに数十のスペースコロニーがあるとみていいだろう。それが「消滅」とはただならぬことだが、ここには解釈の余地がある。すべてが地球に落とされて消滅した、と考えなくとも、地球連邦の統治下から消えたと考えることもできる(私のいう「おおらか」とはそういう意味である)。実際に各サイドにいくつのスペースコロニーがあるのかは、のちに作られたシリーズ作品を通しても設定されていなかった。続編を作るなら、本作で提示されつつも曖昧な世界観をしっかりと固め、宇宙世紀の世界はどんな世界かを具体化すべきだっただろう。

 それはさておき、このナレーション部分では4つの宇宙都市の群れがすべて「消滅」したことで、殊更ジオン公国の悪辣さが強調されているが、本編はそれとは逆の物語となっている。

 ホワイトベースに、連邦の空軍機の救難信号が入ってくる。連邦に「空軍」があったのかと驚くが、ちょうどそのとき空中換装の訓練中だったアムロは、ブライトの命令でガンダムを分離させ、コアファイターで信号の発信ポイントへ向かう。


 そこは小さな島の浜辺で、複座の戦闘機に乗組員がしばりつけられた状態で放置され、武器はすべて奪われていた。アムロは二人を助けようとするが、石を投げて立ち向かってくる子どもたちに遭遇。やめさせようとするところにザクが出現し、戦闘となる。しかしコアファイターは丸腰のザクに手も足も出ないまま海面に叩き付けられ、アムロは気を失ってしまった。


 助けられたアムロはロアンという少女から、ザクのパイロットがジオンの脱走兵ククルス・ドアンであることを聞かされる。ホワイトベースに戻りたいアムロだが、コアファイターを隠されてしまい、必死で島中を探すが見つからない。そんな折り、島にジオンのザクが来襲しククルス・ドアンとザク同士の戦闘になる。
 そのザクを追ってきたホワイトベースと合流したアムロは、ガンダムにドッキングして出撃する。しかしドアンはアムロに手を出させず、素手で戦いに挑んでいくのだった。そして戦いの中、アムロはドアンから、島にいる子どもたちの親を殺したのは自分だ、という告白を聞く。

 14話に引き続き、今回も敵の兵士はどういう人たちなのか、というところにスポットを当てたストーリーとなっている。なぜ、この話にインパクトがあるのか。それは、それまでのロボットアニメ、SFアニメの描く「敵」が人間とは異なる「異星人」だったことだったのに対して「敵も同じ人間で、同じような心を持っている」ことを強く表現しているからだろう。
 この脚本を手がけたのは11話「イセリナ、恋のあと」と同じ荒木芳久である。主人公に対して美少女イセリナに銃口を向けさせ、アムロに「僕が・・・仇?」と言わせた11話のラストは強い印象を残した。「ククルス・ドアンの島」はそんな11話のテーマを引き継ぎ、敵にとっての敵は誰か、そして敵もまた、同じ人間として憎しみも哀しみも、そして良心と悔いる心も持っているということを、さらに深めて語りかけてくるものとなっている。そこには、戦いを「かっこ良く描く」裏側に、このような悲しい現実が起こっているということを描きたいという、制作者の強い思いを感じる。
 一方で、やはり敵も同じ人間なら、最後は「敵を全部やっつけました」という終わり方にはできない、という課題も見えてきた頃だと思う。相互不理解としての戦争を描く中、同じ人間なら「わかりあう」ことができるはずだ、という希望のストーリーを展開していくにはどうしたらいいのか、という模索の意味もあったのではないだろうか。

この一言! 「教えてやる、少年たち。子どもたちの親を殺したのは、この俺さ!」

 今回レビューのために本作を再視聴して、驚いたことがあった。気を失ったアムロはドアンに助けられた後、1話の初回登場と同じランニングシャツに縞パンツという格好で出てくるのだが、格好は同じでもアムロ自身がまったく変わってしまった、ということに。サイド7がザクの襲撃を受けてから、かれこれ1か月ほどたったところだろうか。アムロは親を失った子どもたちを守っているというドアンに対し疑いの眼差しを向けるが、思えばアムロは、このストーリーに出てくる戦災孤児と同じ立場だったのであり、そうとわかると、ドアンについて「あなたみたいに子供を騙して手先に使うのとは違います。僕はジオンの侵略者と戦ってるんです」と厳しい目で見る理由も腑に落ちる。
 一方で、そんなアムロをドアンは「青臭いところが取れたらいい兵士になれる」と見ている、と少女ロアンは伝える。アムロからは、もやは戦争に巻き込まれ、故郷を追われた少年という匂いは消えてしまっているのだ。13話でアムロと再会した母が「昔のおまえに戻っておくれ」と言ったとき、その気持ちがよく分からなかったが、こうして見ると戦いに巻き込まれる前とは確かに違ってしまったことがよく分かる。

 この物語を、そんなアムロの物語として見るとき、「教えてやる、少年たち。子どもたちの親を殺したのは、この俺さ!・・・俺の撃った流れ弾のためにな」というククルス・ドアンの告白は、敵ジオンのザクの襲撃で故郷のサイド7を追われ、十分な援護も受けられないまま生き延びるために戦い続けなければならなかったアムロの荒んだ心に強く響いたに違いない。「「俺の命に代えても、この子どもたちを殺させはしない!」。それはアムロがここまでの戦いの中ではじめて出会った、真の良心から出た正義の言葉であった。これまで生き延びるために必死だったアムロらがジオンという「侵略者」を意識するに至ったこのとき、本当の敵は目の前で拳を振るい、銃口を向ける人々ではないという新たな展開へ向けて、その一歩を踏み出したのだ。

 そんなドアンに、アムロは「あなたの体に染み付いている戦いの匂いが、追跡者を引きつけるんじゃないんでしょうか?」と言った。アムロは生き延びるためにガンダムに乗って戦い、そしてホワイトベースの一員とされてしまったために、ジオン軍に追われ、戦い続けなければならなくなった。その結果「体に染み付いている戦いの匂いが、追跡者を引きつける」と、一端の兵士のようなことが言えるまでになったのだ。それは、アムロ自身にも染み付いてしまった匂いかもしれない。アムロはドアンのザクを海中に沈めたが、自分自身についてはどうなのだろうか。この後、それを問いかける出来事がこの起こるのもまた、必然だったのかもしれない。

<今回の戦場> 
東シナ海に浮かぶ無人島(五島列島、もしくは南西諸島の島)
<戦闘記録>
■地球連邦軍:連邦空軍のSOSを受信。救助に向かった島でジオン脱走兵に出会う
■ジオン公国軍:脱走兵ククルス・ドアンの潜む島へ、ルッグンにザクをぶら下げて来襲。

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