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 機動戦士ガンダム(1979)各話レビュー

 第12話「ジオンの脅威」

脚本/松崎健一 演出/横山裕一郎 絵コンテ/斧谷稔 作画監督/中村一夫

あらすじ

 ジオン公国では、ガルマ・ザビの国葬が大々的に執り行われようとしていた。一方ドズル中将の命を受けたランバ・ラル隊がザンジバルで地上に降下。太平洋上で木馬と遭遇し、交戦となる。エンジンの不調で、出力が落ちていたWBは乱気流の中に逃れて敵の攻撃を避け、入り組んだ海岸線に降下した。アムロは再び出撃命令を受けるが、彼は様子がおかしくなっていた。

コメント

 これまで意識したことはなかったが、1クール12話とすると、まさに1クール目のラストを飾るにふさわしい1話である。いよいよ「巨大な敵」が、アムロらの前にその全容を現すからである。
 11話最後で愛息戦死の知らせに杖を落としたデギン公王。ビデオレターでガルマからのメッセージに耳を傾け、その死に深く心が沈んでいる様子である。しかし実権を握るギレンやキシリアは、そんな父を「老いた」と見ているようだ。このように権力の座にあって一枚岩になれない「敵」が、この話の最後には「巨大」な一枚岩の「敵」として、アムロやブライトらの前に立ち現れる。


 ガルマの仇討ち部隊として、ドズル中将が地球に派遣したランバ・ラルの部隊はまさに一枚岩の敵で、シャアの奸計に翻弄されたガルマ隊よりもはるかに強そうに見える。指揮官のランバ・ラルになぜか私服の女性が副官っぽく付き添っているのも異様に目を引く。大気圏に突入してきたランバ・ラル部隊のザンジバルと、太平洋上で遭遇したホワイトベース。整備不良でエンジンの出力が上がらず追撃を振り切れない。そこで雷雲の中に逃げ込むのだが、スペースコロニー育ちの人々だ。フラウ・ボゥも、ジオンの兵士も雷を「敵の新兵器」と勘違いするところに、彼らの地球育ちの人々との感覚の違いが表現されていて面白い。

 逃げ切れないとみたブライトは、地形をスキャンして島嶼に隠れられそうな入り江を見つけ、ホワイトベースを着陸させる。そしてアムロらに出撃を命じるのだが、このときすでにアムロは変調を来していた。9話では出撃拒否状態だったが、今回はもっと重症で心神喪失といってもいいような状態である。リュウ・ホセイはこれをブライトに「新兵がよくかかる病気」と説明していたが、これは当時、ベトナム戦争の帰還兵が陥っていたことでアメリカで問題になりつつあったPTSD(心的外傷後ストレス障害)を指しているものと思われる。

 ガンダムは、そのリアルな世界観によって「リアルロボット」というジャンルを開拓したが、私が本当にリアルだなと当時から感じていたのは、むしろこのような人間の描写である。ロボットアニメでは、10代の主人公が毎週毎週、危機一髪のピンチに陥りながら快刀乱麻の活躍を見せていたが、もしこれが現実だったら、主人公ってその精神的負荷に耐えられないんじゃないの?ということを、まざまざと見せてくれたからである。人間は弱い。その心は繊細で、毎日のように死の恐怖にさらされ、そして実は自分は人を殺しているんだという現実を突きつけられたら、そこから逃避しなければ生きていけなくなるものなのだ。

 ちなみに1981年に公開された劇場版1作目では、11話の「イセリナ、恋のあと」をはじめ、アムロに降り掛かるストレス描写のあるエピソードが尺の都合でカットされている。そのため、劇場版だけしか見ていないと、アムロ=弱っちい自分勝手な主人公、というステレオタイプな見方に陥ってしまう。その意味でも、やはりガンダムを観るなら、断然テレビ版がオススメだ。

 荒療治と称してブライトは無理矢理アムロを出撃させるが、結果的にそれがアムロを立ち直らせる。ジオンの新型モビルスーツ「グフ」が現われ、パイロットのランバ・ラルが「ザクとは違うのだよ、ザクとは」という名台詞でアムロと視聴者の心を鷲づかみにする。


 アムロはグフの新兵器に翻弄されるが、リュウらの後方支援が功を奏して敵は撤退する。一方のランバ・ラルはヒートロッドの攻撃ですかさずバズーカを捨てたアムロの「手練れ」に目を見張っていた。アムロは敵の退却を見て「見逃してくれたのか」と言葉を漏らす。見逃してくれなければ、やられていたかもしれない強敵が現れたのだ。

 そうした敵に対して主人公の側は「父さんの敵、母さんを返せー」という思いを持って立ち向かうというのが、よくある「構図」であった。しかし、このランバ・ラル隊とホワイトベースの遭遇戦にオーバーラップするジオン公国の国葬で、葬送されるガルマ・ザビを倒したのは他でもない、アムロらホワイトベースの少年たちである。そして熟練の兵士たちが揃うランバ・ラル隊は、この少年たちに「ガルマ様の敵討ち」を挑むのだ。この、敵と味方の立場がまるっきり入れ替わったかのような展開は「単なる勧善懲悪のストーリーではない」と評された。

 ランバ・ラルが撤退すると同時に、ジオン公国軍総帥ギレン・ザビの追悼演説が始まる。全世界に中継されるその演説を通して、我々は「敵」の側の掲げる大義を知ることになる。それはまた、ホワイトベースの属する地球連邦軍がなぜ戦っているのか、という理由を知ることでもある。ただ、生き延びるために戦ってきたホワイトベースの少年たち。彼らもまたこのとき、自分たちの戦う理由を自問自答したのではなかったか。その答えを見いだす旅は、実はここから始まるのだ。

この一言! 「何を言うか。ザビ家の独裁をもくろむ男が何を言うのか!」

 第1クールのクライマックス、それは姿を現した「巨大な敵」ジオン公国軍総帥、ギレン・サビの演説だった。冒頭のナレーションで、地球連邦に対して独立戦争を挑んできた、ということだけは知っていたが、彼らの国の体制と、その主義主張がはっきりと示されるのはこれが最初である。

・・・戦いはやや落ち着いた。諸君らはこの戦争を対岸の火と見過ごしているのではないのか?だが、それは罪深い過ちである。地球連邦は聖なる唯一の地球を穢して生き残ろうとしている。我々はその愚かしさを地球連邦のエリートどもに教えねばならんのだ。

 ジオンは万全の準備をして地球連邦に戦いを挑み、地球上のほぼ半分を制圧していた。しかし地球連邦は彼らに屈することなく、戦いは膠着状態に陥っていた。そんな中で、ジオン軍の中には連邦を侮る気のゆるみも出ていただろう。ギレン・ザビはガルマの死を利用して、戦意高揚を図ろうとしたのだ。しかし、ホワイトベースが地球に降りてからここまで見てきた光景を見るにつけ、地球をここまで荒廃させたのは一体だれか、と小一時間問いつめたくなるのは私だけではないだろう。それを知らないジオンの国民にとっては、これは見事なアジテーションとなる。

・・・我々は今、この怒りを結集し、連邦軍に叩きつけて始めて真の勝利を得ることができる。この勝利こそ、戦死者全てへの最大の慰めとなる。国民よ立て。悲しみを怒りに変えて、立てよ国民。ジオンは諸君らの力を欲しているのだ。ジーク・ジオン!

 この演説を、ランバ・ラルはハモンとともに平然と聞いている。ガルマを死なせたとして左遷されたシャアは、酒場でギレンの「私の弟、諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。なぜだ?」という問いに「坊やだからさ」と突っ込みを入れながらグラスを傾けている。戦いになれた彼らは、ギレンのこうした演説に煽られることもないようである。


 一方ホワイトベースでは、ブリッジで皆が唖然としながらその演説を聞いていた。困惑した表情を浮かべるミライ、うなだれるセイラ。「これが、敵・・・」と思わずつぶやくアムロ。そのとき、やおら立ち上がったブライトが言い放つのが、この一言である。

「何を言うか。ザビ家の独裁をもくろむ男が何を言うのか!」

 「一握りのエリートが宇宙にまで膨れ上がった地球連邦を支配して五十余年、宇宙に住む我々が自由を要求して何度連邦に踏みにじられたかを思い起こすがいい」。このギレンの言葉の中には、事実が含まれていることは間違いない。彼らの大義は、これだけ聞いていれば同調できるものだ。彼らと同じくスペースコロニーで生まれ育った地球連邦市民なら、共感さえするかもしれない。ブライトの一言は、ギレンが口にすることのないその野望を明確にすることで、そんな空気を相対化した。そして、なぜ地球連邦がジオンに屈することなく戦い続けるのか、その意図を明らかにした。ブライト自身は地球出身の士官候補生であるがゆえ、ある意味その地球連邦の大義に対して愚直な部分があるのかもしれない。ザビ家の独裁に飲み込まれはしない。それが、地球連邦の掲げる大義なのだ。

巨大な〜敵を〜うてよ、うてよ、うてよ 正義の怒りを ぶつけろ〜ガンダム♪

 なかなか見えてこなかった、主題歌の「巨大な敵」と「正義の怒り」がここにきてようやく明確になった。しかしホワイトベースの面々にとっては未だに「巨大な敵」は自分の敵ではなく、「正義の怒り」もまた自分自身の怒りではない。その行く先で、彼らは何を見いだしていくのだろうか。

<今回の戦場> 
太平洋の島嶼周辺
<戦闘記録>
■地球連邦軍:大気圏を突入してきた戦艦、新型モビルスーツの攻撃を受ける。
■ジオン公国軍:ランバ・ラル部隊がホワイトベースを追撃、攻撃を仕掛けて後退却。

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