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 機動戦士ガンダム(1979)各話レビュー

 第9話「翔べ!ガンダム」

 脚本/星山博之 演出/小鹿英吉 絵コンテ/斧谷稔 作画監督/安彦良和

あらすじ

 敵陣で孤立するホワイトベースは参謀本部からの「敵を突破して海へ脱出されたし」という指令を傍受する。ブライトはこの対応に歯噛みしながらも、アムロにパトロールを命じる。しかしアムロはこの命令を拒否して、自室に引きこもる。一方ジオン側では、功を焦ったガルマ大佐が自ら出撃しようとしていた。シャアは木馬が偵察を出したことを「焦っている」と分析し、ガルマに本命の木馬を叩くことを提案する。

コメント

 有名な、あまりにも有名なアムロの台詞が飛び出す回である。戦局としては非常に単純で、ジオンの勢力圏内で孤立しているホワイトベースが、シャアの奸計によって出撃したガルマによる正面攻撃を受けるが、アムロの「ガンダムで空中戦をやる」というアイデアで危機を抜け出すという、それだけの話である。タイトルの「翔べ!ガンダム」は、まさにそのままその通り、というタイトルで、ある意味拍子抜けさせられてしまう。しかし、同時に主題歌のタイトルでもある。何か、ここに本作の主題が語られているのではないか、と期待させるものがある。そういうものはあっただろうか、あったとすれば、何なのだろうか。

 ここ2話ほどで際立ってきたのが、シャアとガルマとの怪しげな関係である。シャアは友人だと口では言いながら、内心ではガルマが木馬に敗北して命を落とすことさえ望んでいるように見える。地上に降りてからここまでの戦いを主導しているのは、指揮官のガルマでも主人公側のホワイトベースでもなく、アムロにとって宿敵になりつつあるシャアである。何かを企んでいる、しかしまだその企みは何かが分からない。それが視聴者を惹き付ける力となっているは間違いないであろう。シャアは「ガンダム」で随一の人気を誇るキャラクターだが、それはこうして視聴者に謎を提示しながら前半の物語を主導していたことによるものと思われる。



 しかし、この作品の主人公はアムロである。彼にこそ、主人公として立ち、テレビを見る私たちに向かって何かを伝えるキャラクターでなければならない。しがし彼は戦場では一兵卒であり、指揮官の命令に従って作戦行動を取るだけの存在でしかない。ガンダムというメカの力がなければ、何の力もないただの少年である。
 食糧事情の逼迫するホワイトベース内で、アムロは自分だけが特別扱いされていることに耐えられない。パトロールを命じられると、そんなことをして敵を呼び寄せる必要はないと反発する。心配して様子を見に来たフラウ・ボゥに「アムロが戦ってくれなかったら、私、とっくに死んでいたわ」と感謝の気持ちをほのめかされても、「怖いのは嫌だ」と頭を抱える。彼には、戦っても得られるものは何もない。

 
 敵の勢力圏でありながら「地球に降ろせ」と騒ぎ立てた避難民たち。それはアムロらの守るべき弱者であったが、守られているという意識もないまま、願いどおりにホワイトベースを降りてしまった。降り立った地球は荒涼とした大地と破壊された市街地があるだけで、守るべき市民の姿など見えない。敵から守って持って来た最新鋭戦艦のホワイトベースや最新モビルスーツのガンダムでさえ、さして必要そうには見えず、連邦軍が迎えにくる気配もない。彼らには、守るべき地球も、守るべき市民の姿も何もない。おまけに敵のジオンだって、同じような立場の兵士は結構いいヤツみたいだ。別にこの人たちが地球にいたって、いいじゃないか。

 
 「まだ怒りに燃える〜 闘志があるなら〜 巨大な〜 敵を〜 撃てよ撃てよ撃てよ〜」

 怒りももう、消えてしまった。そして巨大な敵はまだ見えない。そんな中で、部屋へ怒鳴り込んできたブライトにアムロは言うのだ。「ブライトさんは、なんで戦っているんです?」使命もない、信念もない、任務を果たさなければという義務感もない、何も持たない素の少年。
 その後の展開こそ、あまりにも有名なこの場面。ブライトはアムロを殴り、アムロは殴られたことにショックを受ける。だが、瞠目するのはそこではない。アムロは殴られても、殴り返しもしなけれ言う事を聞いて立ち上がることもしない。「甘ったれ」と言われても、その言葉を否定しない。そのかわりに、こう叫ぶ。それが今回の「この一言」である。

この一言! 「二度もぶった。親父にもぶたれたことないのに!」

 なぜ任務を果たそうとしないのか。そう問いつめるブライトにアムロは言う。そんなにガンダムを動かしたいなら、あなた自身がやればいい、僕だって、できるからやっているんじゃないんだ、と。そこでブライトの平手が飛ぶ。二度にわたって殴られたアムロが叫ぶのが、このあまりにも有名な台詞である。
 なぜ、戦争ともモビルスーツとも何の関係もないこの台詞が、「ガンダム」を代表する台詞の一つとなっているのだろうか。

 この疑問を解くために、私は「ヤマト」以前の国民的アニメの一つ、「巨人の星」の第1話を視聴した。史上最大の名三塁手と謳われた長嶋茂雄が巨人軍に入団したニュースで持ち切りだったある夜、長屋の前でキャッチボールをしていたことをからかわれた星飛雄馬が怒りのあまり相手にボールを投げつける。その態度に怒った父、星一徹に対して飛雄馬は、自分が叶えられなかった夢を息子に背負わせていると激しく反抗し、父にビンタを食らう、という展開。家を飛び出した飛雄馬は一人、野球が憎い、長嶋が、川上(哲治)が憎いと肩を震わせる。

 この「巨人の星」の主人公の父・星一徹は日本でもっとも有名な父親像の一つとされている。この第1話は最終的にかつての一徹の盟友、川上哲治に飛雄馬が見いだされ、父子で「巨人の星をめざすのだ」という決意を語って終わる。この物語の主人公・星飛雄馬を演じるのは、本作でアムロ・レイを演じている声優、古谷徹である。とすれば、「二度もぶった。親父にもぶたれたことないのに!」という台詞は、明らかに同じ声優が演じた、かの主人公を意識しているだろうと思ったのだ。

 飛雄馬は父親にぶたれながら、野球を憎いといいながら、それでも父親の夢に殉じて野球に没頭していく(ちなみに彼が1話で父親にぶたれた回数も二度である)。しかし「親父にもぶたれたことない」というアムロの一言は、この父親像を木っ端微塵に打ち砕いた。父親にぶたれたことのない少年が、かの有名な主人公と同じような人格であるはずがない。「もうやらないからな。誰が二度とガンダムなんかに乗ってやるものか!」と、アムロが強く反発するのは極度の恐怖と疲労が重なっただけではないだろう。ブライトに都合良くこき使われている現状に不満があるのだ。そして彼は、殴られても「乗らない」という意志を変えなかった。しかしその後すぐに翻意する。「それだけの才能があれば貴様はシャアを越えられる奴だと思っていた」と、シャアの名前に目の色を変えたのである。そして結果的には自らの意志でガンダムの操縦席に戻って行ったのであった。

「まだ怒りに燃える〜 闘志があるなら〜」と主題歌にある通り、彼にはまだ怒りに燃えるほどの闘志が残っていたようだ。シャアは振り返ってみれば、彼らホワイトベースの面々がここまで追い詰められるすべての原因を作った人物である。怒りに燃えて当然であろう。それだけでなくブライトが言ったもう一つの言葉「それだけの才能があれば」も聞き逃すことはできない。星飛雄馬とちがって「ガンダムの開発に夢中」だった父親から放任主義ぎみに育てられたとおぼしきアムロは、自分を認めてほしいという「承認欲求」に駆られている。認めてくれたかもしれない父親は、第1話の戦闘で生じたコロニーの穴からピューッとどこかに飛んでいってしまった。

「巨大な〜 敵を〜 撃てよ撃てよ撃てよ〜」 そんな彼には、目の前のシャアを倒すことが「認められる」手段なのだ。しかし士官候補生のブライトには、恐らくこの主題歌のいう「巨大な敵」が見えているはずだ。では、アムロにもその「巨大な敵」が見えてきたとき、彼はどう変わっていくのだろうか。
 1960年代を代表するアニメ「巨人の星」は父親と密着しすぎたゆえに苦しむ青年の姿を劇的に描いた。それに対して1970年代という時代を反映し、「ガンダム」は父親不在の少年の姿を描き出す。誰かに認められたい、というその切なる思いがガンダムを飛翔させ、これからの物語を主導していくことになるのだ。

<今回の戦場> 
北米大陸 カリフォルニア周辺
<戦闘記録>
■地球連邦軍:ガルマのドップ隊を退け、マチルダ部隊の補給を受ける。
■ジオン公国軍:シャアの奸計でホワイトベースの正面攻撃失敗。ガルマ追い詰められる。

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