MUDDY WALKERS 

機動武闘伝Gガンダム 

Gガンダム 1994年4月22日〜1995年3月31日  
TV放映 全49話

原作矢立肇/富野由悠季
監督今川泰宏
脚本
五武冬史/桶谷顕 ほか
キャラクター原案島本和彦
キャラクターデザイン逢坂浩司
メカニカルデザイン
大河原邦男/カトキハジメ/山根公利
美術東潤一
音楽田中公平

スト−リ−

 FC(未来世紀)、人々は荒れ果てた地球を捨て、宇宙に浮かぶコロニーにそれぞれの国家を移して生活していた。度重なる戦乱に疲れた人類は、コロニー間紛争の平和的解決策として、4年に一度、優勝国が世界の覇権を握るという「ガンダムファイト」なるスポーツマンシップにあふれた新しい形の戦争を編み出す。そしてFC60年、「ガンダムファイト」第13回大会が開幕する。ドモン・カッシュはコロニー格闘技の覇者「キング・オブ・ハート」の称号をひっさげて、この大会に参戦すべく地球に降り立った。ネオ・ジャパン・コロニー代表のガンダム・ファイターとして、シャイニングガンダムを駆る彼には、どうしても優勝しなければならない理由があった。自ら開発したアルティメット・ガンダムで国家転覆を謀ったとして冷凍刑に処された父カッシュ博士の無実をはらすこと、そしてもうひとつは世界征服をたくらみ、父の開発したアルティメットガンダムを盗んで地球に逃走した兄キョウジの居場所をつきとめ、彼を倒すことである。
 今日もドモン・カッシュは、赤いマントを翻して街をゆく。「そこのおまえ、この男に見覚えはないか?」

物語の背景

 機動戦士ガンダム第一作放映15周年を記念して制作されたというこのガンダムは、非富野ガンダム第1弾として、またこれまで連綿とつづられてきた「宇宙世紀」の歴史を銀河の彼方までふっとばしてしまった「別世界ガンダム」第1弾として、ガンダム史上に100ポイントの特太ゴシックで特筆すべき作品です。90年代に入り、失速してきたガンダム人気を再燃させるため、起死回生を賭けて、15年かけて構築されてきた宇宙世紀ガンダムをバラバラに解体し、その本質を見極めて全く新しい形に再生されました。ここで、再構築された別世界ガンダムの背景を明らかにしてみましょう。

(1)コロニー間の、世界の覇権を争う戦いである
 地球連邦という巨大組織が、地球圏を掌握していた「宇宙世紀」とは対照的に、この世界では地球は「捨てられた」大地であり、コロニーを生活の場とする宇宙居住者たちが、世界の覇権を争って戦っています。地球はその争いの舞台にしかすぎません。
 また、このガンダム世界ではコロニーが、「ネオジャパン」「ネオアメリカ」など現在の国家を引き継ぐ形で、事実上現在と変わらない「多国籍」の世界となっています。そして「ガンダムファイト」に参戦するどの国家も、狙いはひとつ、「世界の覇権」であり、これまでの「正義対悪」(ただし悪の側にも正義はある)という世界観から、さらに敵と味方の相対化が進んで「だれもが正義であり、悪である」という方向に進化しています。コロニー国家の住民にとっては、それぞれの国のガンダムファイターは正義であるが、一方で戦場となる地球の住民にとっては、すべてのガンダムファイターが悪なのです。これはいいかえれば「戦争に正義はない」ということであり、非常に現実的でシビアな世界観といえます。

(2)格闘するMSを実現した、モビル・トレース・システム
 この世界の覇権は、モビルスーツを主体とした戦争でなく、各国の代表となる格闘家が操縦するモビル・ファイター「○○ガンダム」によって争われます。この画期的なシステムを実現したのが「モビル・トレース・システム」です。各ガンダムの操縦者はノーマルスーツのかわりに、体の動きをトレースして操縦系統に伝達するデータフィルム状のファイティングスーツ(ですか?)を装着し、コクピットで格闘することによって戦闘します。ゆえに彼らはパイロットでなく「ファイター」とよばれます。
 これによって、これまで宇宙世紀ガンダムで構築されてきた見事なSF考証が木っ端微塵にされてしまいまいました。ロボットアニメにつきものの「必殺技」も復活し、リアルであろうとしたガンダムの世界を元の「スーパーロボット」時代に引き戻してしまった感もあります。しかし、こうした戦いの形式を作り上げることで、実は「戦争」というあまりに高度な政治的複雑さを伴ったドラマから、人と人とがぶつかりあう「人間」ドラマへの回帰を図ったのではないかと、私は見ています。

(3)明鏡止水〜「リアリティ」から「テイスト」へ
 「宇宙世紀」ガンダムが何よりも重んじてきたのがリアリティであることは「機動戦士ガンダム」の項で述べました。しかしGガンダムではあえてこのリアリティを脇におき、テイストを作風の全面に押し立てています。「らしさ」よりも「味わい」を重んじているわけです。これを可能にしたのは、主人公をはじめとする主要登場人物の設定ではないでしょうか。テレビシリーズとしては初めてのことと思われますが、多分に大人げないところがあるとはいえ、主人公ドモン・カッシュは20歳の「大人」なのです。それは単に年齢設定のことだけを意味しません。他の作品の主人公が家庭の不和、大人への反発---「父性なき父への怒りを戦争にぶつける」---というような動機からガンダムに搭乗し、なし崩し的に「死にたくない」「仕方ない」などの理由から戦いつづけるのと違って、彼は「父の無罪をはらす」ため、つまり自分のためでなく他人のために戦っているのです。Gガンダムは小学生低学年から高学年という低年齢層を狙った作品であっただけに、「ティーンエイジャーが共感する」という従来の主人公像から自由であることができたと思われます。ドモンの赤いマント、シュバルツの目だし帽のような覆面マスク、そして何より東方不敗というキャラクターは、「リアリティ」という観点から見れば異様でしかありませんが、「テイスト」として見ると意外にかっこよく見えたりするのです。

(4)拳で語る
 宇宙世紀シリーズで「ニュータイプ能力」に匹敵するものが、ガンダムファイター同士の「拳で語る」という発想ではないかと思われます。この世界では「宇宙に出て新しい能力を得た人々」が分かり合うかわりに、「熱い魂を持ったファイターが、その拳を合わせて」分かり合うのです。いずれのガンダム世界でもこうした能力が必要とされるのは、それがなければ単なる「殺し合い」「殴り合い」の話に終わってしまうからではないでしょうか。そして逆にいえば、ガンダムは単なる敵のやっつけ合いの話ではないということであり、そういう意味で、一見宇宙の彼方まで吹っ飛んでいってしまったかにみえるGガンダムもまた、ガンダム・シリーズに列するにふさわしいテーマをそなえているといえましょう。

レビュー

 私も時にはゲームを楽しむこともありますので、かの「スーパーロボット大戦F」などを通じてGガンダムのことは少しは知っていました。他のガンダムとは全然ちがうということも、そして東方不敗という強烈なキャラクターがいるらしいということも。ビデオを見る気になったのは、ちょっとゲテモノを味わってみるような興味本位な気持ちと似ていたかもしれません。よもや屁理屈こきのこの自分が、どちらかというとキワモノ的な作品にこんなにハマってしまうとは、夢にも思わなかったのでした。
 確かに4年に一度、コロニー国家が世界の覇権を争う「ガンダムファイト」などという発想は、これまでのガンダム世界と比べるとどことなくリアリティに欠けるばかりか、「格ゲー」に似た安易な設定ともいえます。(ついでに言えば、推測ですがこれはワールドカップを大いに意識しているものと思われます。あの「ドーハの悲劇」がなければ、放映された1994年に我が日本代表はアメリカで開催されたワールドカップに出場しているはずでした。なにしろワールドカップはスポーツでなく「戦争」ということですし)しかし「ガンダムファイト」によって実現したガンダム同士の1対1の戦いが、ファイターとファイターとの心理戦、そして濃厚な人間ドラマ的展開を可能にしたのです。物語は当初、ドモン・カッシュの兄に対する「復讐劇」を軸に進みます。ドモンが「写真の男」を探して歩く第1話から11話までの展開には、対決する相手の「戦う理由」などの中にドロドロした人間関係がかいま見え、まるで「火曜サスペンス劇場」を見ているようでもありました。
 これが、ドモンの師匠・東方不敗の登場によって、新たな展開を迎えます。父とも慕うかつての師匠が、敵となって立ちはだかってくるのです。東方不敗というキャラクターは、今までのガンダムに決して現れることのなかった存在でした。何しろ素手でデスアーミーを・・・という意味ではなく、ドモンにとって彼は育ての親に等しい人物なのです。その彼が、ガンダムファイト決勝大会でドモンの実力を試し、最後にして最大の敵として対決する。つまりこれは、弟子が師匠を超える---息子が父親を乗り越えて一人前の男になっていく物語であるのです。「この、バカ弟子があぁぁぁぁぁぁ」「だからおまえはアホなのだぁぁぁぁぁ」とドモンは師匠に叱責されまくっていますが、にも関わらず東方不敗が最も「記憶に刻まれる」キャラクターになっているということは、現実に、このような「愛のムチ」をくれる父たる存在が身近にいないことの裏返しとも思われます。これまでのガンダムでは、父性なき家庭の「現実」とその少年の心の穴を世界に写して描いてきたのですが、Gガンダムでは現実の少年たちの写し鏡でなく、彼らがどこか心の奥底で「望んでいる」熱い魂にあふれた世界を描いているのです。
 そして、この作品の最もすばらしいところは、こうした激しい格闘が、罵り合いに終わらない、という点にあるのではないでしょうか。ドモンは激しい怒りをもって復讐を誓った兄キョウジの行為が実はウルベ少佐とミカムラ博士による陰謀であったことを知り、最後に兄と和解し、涙の石破天驚拳によってこれを倒しています。またついに最終決戦で東方不敗に勝利したあと、最期を迎えた東方不敗を「師匠」と呼び、長く苦しい対決のときを、和解と、そして死にゆく者に捧げる涙でしめくくっています。これは、例えば高いニュータイプ能力をそなえながらも決して分かり合うことなく、互いを罵りながらアクシズの落下で燃え尽きていった(?)シャアとアムロの対決と好対照をなしています。どちらが感動的か、などということを論じるのはばかげています。それは、見て感じればわかることです。
 さらにこのあと、物語はドモンのパートナーであったレイン・ミカムラを核として、第2のクライマックスを迎えます。レイン・ミカムラは当初はいかにも職場の花的な役割しかないように見えたのですが、次第に東方不敗、シュバルツ・ブルーダーと並ぶ重要な役どころを担うようになりました。それとともに、ドモンとレインとの関係もまた、他の作品にない類まれなるものとなってゆきます。あるいは彼女が最後の敵となったのは、まさに彼女こそがドモンにとって最も重要なキャラクターだったからともいえます。なぜなら東方不敗、シュバルツ・ブルーダーが成長とともに乗り越えられる人物であるのに対して、レインはその結果彼が獲得するものだからです。このふたりの関係は、単なる戦場に花開くにぎやかしの恋ではありません。ふたりは恋しているのではありません。もはや恋でなく、これは愛の物語なのです。レインは愛するがゆえにドモンの元を去ったのであり、愛するがゆえにドモンを拒絶するのであり、そして彼女を救うのは、拳でなくドモンの愛の力なのです。
 愛なんていうと、ちょっと気恥ずかしいような気持ちになりますが、これは作品の価値を考える上で非常に大切な視点であると思います。私たちは、どう転んでもシャアやアムロのようなニュータイプになることはできません。ガンダムファイターたちのように拳で語ることもできません。しかし私たちはドモンやレインのように、生きることはできます。なぜなら人はだれでも、愛することができるからです。 (2000.8.21)

評点 ★★★★★

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